久方ぶりに、映画の話題。
夏の休暇を一日しかとれず、旅行にも行けなくて(ここ何年も!)、なんやかんやの欲求不満がたまるきょうこのごろ。少し時間ができたのでせめて映画でも見たいと思い、夕方事務所を早めに出て銀座に向かった。
出がけにネットで調べたら『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』の情報が出ていて、「これこれ!」とシネ・シャンテに参上した次第。タイミングよく、開映30分前。目の端に赤い風船が写ったポスターがちらつく。早めにいい席を確保し、自販機で買ったアクエリアスを飲みながら、予告編がはじまるまで本(池澤夏樹『光の指で触れよ』)を読んで時間をうめた。
最初に同時上映の『白い馬』。すばらしい構図のモノクロ映像にひきこまれ、ラスト、波の彼方に消えていく馬と少年に涙しそうになったら、休憩をはさまずすぐに『赤い風船』がはじまった。ファーストシーンの階段の向こうに俯瞰した早朝のパリが見え、少年が猫と出会うカットからしてやはり見事で、しかもこれはカラー作品なのだけど、すぐにでてくる風船の赤がなんともいえず美しい赤で、これだけでも見に来た甲斐があったとうれしくなったのだけど、…だけどなのである。
同じ「赤い風船=レッドバルーン」ではあるが、『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』は50年代のフランス映画をリメイクした作品であることだけ(それだけ)は知っていた。それで、ホウ・シャオシェンの新作!というだけでわきめもふらず映画館に飛び込んだのはよかったけど、スクリーンに映し出されているのは、リメイクというにはあまりに「昔のパリ」そのまんまなのである。あれっ…!?
もうおわかりかと思うが、私が目にしているのは、ホウ・シャオシェンのリメイク版ではなくオリジナルの『赤い風船』だったのである。
タイトルがいかにも昔風にデザインされたフランス語だし変だなとは思いつつも、そのことにはっきりと気づいたのははじまってから10分以上はたっていただろうか。じつは『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』は、同じ館ですでに何日か前に終映していたのである(帰りがけに売店の人に確かめて、やっとわかった)。
この勘違いは、たんなる私のおっちょこちょいが原因だが、別に後悔はしていない。逆に、リメイク版よりも本編のほうを自分の意図を超えて先に見ることのできた幸運に感謝すべきだろう。そして、これを異種なものと感じさせず、むしろ一瞬にしろホウ・シャオシェンの映画と勘違いさせてしまう、これまでの彼の詩的な映像の力のすごさに感嘆を新たにする、といったらうがち過ぎだろうか。
なんだか狐につままれたような気分だったけど、勘違いがなければこの『赤い風船』を見ることはなかったかもしれないし、これも不思議な映画的出会いだったような気もする。
もちろんアルベール・ラモリス監督のこの『白い馬』(1954年)と『赤い風船』(1956年)は、映画であることだけを目的とした、永遠に回帰すべく映画の時間を生きる、ステキな贈り物のような映画作品だった(白い馬と赤い風船。これはひとつのエスプリが姿を変えただけの同じものだ)。私の記憶に永く残り続けるにちがいない。だからこそ、映画の精霊(そんなものがいればだけど)に感謝したい気持ちで、こんなことを記しておきたくもなったわけだ。時を超え、私のもとへ漂ってきた風船…。精霊からの贈り物は、誰かに引き継ぎ、手渡していくものなのだろう。
オリジナルかリメイクかという区別はこの際不要だ。『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』を、見ることのできる日が楽しみである。”もう一度”、彼の映像に漂ってくる赤い風船を追いかけてみたい。
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