夢をめぐる断想ー3


なにやら想像した以上に深層にググッとくるコメントをもらい、ちょっと慌てていますが、今回はまず、たしかに「悪夢」というものがある、といったことから。
最近ある若い人と夢の話をしていて「あっ、そうなの!?」と意外に思ったのは、悪夢を見たことがないっていう人がいること。その若い人自身がそうだと言うのだけど、うらやましいというかなんというか。見たことのある人ならわかるはずだけど、あの悪夢というやつは、ほんと、どうしようもないくらい嫌なもんですよね。目が覚めてからも、しばらくは「もう立ち直れない」ってくらいズタズタな気分で、自分っていう存在を消せるものなら消してしまいたくなるほど。
悪夢で思い出すのは「夢は五臓六腑の疲れから」という言葉と、人にもよるのかもしれないが、私の場合は、なにか邪悪なものに追いかけられている、だけどどうやっても逃げられないといった焦るような思い。たしかに身心の疲労から悪夢は生じやすいだろうし、「永遠に」逃げられない(抜け出せない)という迷路に入り込んでしまったかのような不安が、悪夢というものの構造を形成してもいるように感じる。まあ、「五臓六腑の疲れ」という物理的・身体的な要因は事実としてあるとしても、それだけが悪夢のもとではないと思うし、かりにそうだとしてもそれで「解決」できない面はまちがいなくあるわけで、では、心(意識)のほうから悪夢を考えたとき、悪夢ってなんだろう。
いただいたコメントにもあるように、たしかに夢は現実では満たされない「欲望」を仮想的に充足させる機能をもつものだろう。ある意味で、現実(環境)と自己(の意識)に折り合いをつけようとする思考の運動でもあるだろう。基本的に「快」の実現に向けられた脳のはたらきであろう。では、なぜ邪悪な、とんでもなく嫌な夢を見ることがあるのだろうか。
おそらくそこに「神」の問題がでてくるのではないか。naohnaohさんのおっしゃるのとはちょっと違うかもしれないが、精神分析学的には「父」というタームで語られる問題である。いま夢は願望の充足であるとフロイト的に書いたが、付け足しておかねばならないのは、その「快」は決して「十全には」満たされることがないということだ。欲望には禁じられた欲望というものがあり、欲望の実現を可能とするのも、またそれを禁じ、抑圧するのも「神」であり「父」である。快楽と悪夢は紙一重なのかもしれない。
……ここまでくれば、「悪夢」まであと一歩という気もするが、つづきは次回以降に。
それにしても、悪夢や夢そのものを見ないという人にとっては、ある意味で「神」とか「父」とかの存在が希薄あるいは不在なのだろうか。それとも、欲望(願望)が満たされ、それから解放された人なのだろうか。そんなはずはないと思うのだが。

夢をめぐる断想ー3」への1件のフィードバック

  • 2010年2月16日 @ 4:05 AM
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    「聞く夢」から「悪夢」にググッと向かい、ドキドキしながら読みました。
    河井隼雄を読んだときに感じたのですが、やはり夢は現実に相合みえないその人の実態を色濃く反映しているものですよね。これを心理学で言えば「深層心理」にもなるし、また老子的に言えば「大いなるもの=道(タオ)」と見てもいいのかなと感じました。
    でも、気になるのは、悪夢とそうでないものの違いって、本質的にあるのだろうかということです。バンパイヤに追っかけ回されたり、外で自分だけズボンをなくして恥ずかしい思いをするという夢は確かに悪夢かもしれませんが、例えば奥さんがいるのに別の女性とアバンチュールをするのは、「見てよかった」と思える夢なのか? 甘美な思いは大きいのですが、一方そこはかとない後ろめたさを伴う「プチ悪夢」ともいっていいのじゃないかとも感じます。
    悪夢と良夢の境界線とともに気になるのは「夢と現実のあわい」夢と現実の境界はあるのかということです。僕はどうもこの「境界」が気になってしかたがない。境界こそが、そのものをなり立たせているではないかというのは、実在論的哲学からすると異端だと思いますけれど、「夢の境界は何か」を考えるのも、夢を知るにはいいのかもしれないと思います。

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