聴く夢と見る夢との関係でいえば、先日DVDで映画『愛を読むひと』を見ていて、ふとあることに気がづいた。忘れないうちに書いておきたい。
この『愛を読むひと』で主演のケイト・ウィンスレットがアカデミー賞の主演女優賞をとったことで話題になり、ご覧になった方も多いだろう(個人的には『リトル・チルドレン』の彼女を見て、女優として大いに見直したのだが。この映画もぶっ飛ぶほどおもしろい!)。ケイトの演じる主人公は「文盲」という設定で、歳の離れたひとりの少年と恋におちるのだが、文字の読めない彼女の楽しみは、この少年から『オデュセイア』やチェーホフなどの本を読み聞かせてもらうことである。ストーリーや時代背景などは抜きに、取りあえずここでは、そのことだけおさえておいていただきたい。
何が私の興味をひいたかというと、ほぼ同時期に読んだ村上春樹の『1Q84』とのある種の通底性を感じた点だ。聴くことと読むことの関係性を、かけ離れた2作品が暗示しているように思えたのだ。『1Q84』でいえば、天吾と少女・ふかえりとの、やはり一種の「禁じられた」愛の関係。ふかえりは文盲ではないが「難読症」(ディスレクシア、読字障害)である。この場合天吾は読み聞かせるのではなく、ふかえりの「語る」ことばを書く(リライトする)立場である。むろん『1Q84』も『愛を読むひと』(原作の邦題は『朗読者』!)も、そう単純ではなく、ともにきわめて複雑な筋と構成になっているのだが、ここでは省く。
言えるのは、ともに女の方が「聴く」あるいは「語る」側であり、男の方が「読む」あるいは「書く」役割であるということだ(このことも、もっと微妙な役割分担なのだが、ここではあえて単純化する)。つまり前者が聴覚(表音)、後者が視覚(表意)を受け持っている。さらに興味深いのは『1Q84』においてはこの両者を、ふかえり=パシヴァ(perceiver、知覚する者)と天吾=レシヴァ(receiver、受け入れる者)と位置づけていることである。
(そして、両カップルとも、片方は少年、片方は少女というちがいはあるが、年齢のかけ離れた「成就」することが困難な愛である)
つまりこれまでの夢に関する本稿の文脈でいえば、聴くことがパシヴァ(perceiver、知覚する者)、見ることがレシヴァ(receiver、受け入れる者)として、夢の「声」(聴覚)と「映像」(視覚)を捉えることができるのではないか。アリストテレスのいうヌース(直感、直知)とロゴス(理性的認識)の関係を想起してもよい。その二面性が「私」のなかで交錯し、その交点で演じられるドラマが夢ではないか。「私とは一個の他者である」というランボーのことばの遠い反響を聴き取ることもできる。夢のなかの私とは誰か。
夢における聴くことと見ることの関係性の表象として、この2作品を「読む」ことができそうだと気づいたわけである。深読みなわけだから、気づいたというよりか示唆された、あるいは刺激されたといったほうがよいかもしれないが。しかも、聴くこと(と、声に出して読むこと)が見ることより「一瞬」先にある、ということ……。聴くことで知覚する者は、いったい「誰」の声を聴いているのか。受け入れる者は、文字に記す、あるいは文字を読むことで、いったい誰を(何を)受け入れているのか。
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waheiさんのご指摘のように、夢と現実は別のものではないと私も思います。少なくとも両者を画然と隔てる壁などない。境界はあっても、デジタルな明確な区分ではなく、それはいうなればグラデーションのように境目はどこまでもあいまいです。夢と現実は地つづきであり、聴くことと見ること、知覚することと受け入れることの境界に「真の現実」は生起するといえるのではないでしょうか。
簡単に短く書こうとしたため、わかりにくい記述になってしまいました。これは、夢に関する覚書であり「断想」であるゆえ、お許しください。
アリストテレスの「知る(見る)」ことの意味や、シャーマニズムや夢の「集合性」、文化人類学的な意味でのイニシエーションについても考えてみたいところですが、それはまたいずれ。
この5日からのアリ研(アリストテレスと現代研究会)の合宿で、お話のつづきができるとよいですね。そういえば、アリストテレスは人類史上はじめて学の体系として夢を論じた人であるといわれているようです。荒木トテレス先生に教えを請いたいところです。
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