夢をめぐる断想ー2

前回寄せられたコメントにあるように、「持つ」夢と「見る」夢のほかに、「聴く」夢があるのかもしれない。
というか、おそらく夢は、まず「聴く」ことからはじまるような気がする。
それは言葉(口からでる言葉と文字に書かれる言葉)の構造と関係しているように思える。
目覚めぎわに見る夢は覚えていやすいと書いたが、寝入りばなには声が聴こえてくることが多い。私たちは、声に導かれて夢を見る、つまり眠りに入る。
「夢見の技術」が巧みだったころ、私にはまず声が聴こえてきて、それが「映像」に変わると「あっ、いま眠る」と一瞬だがわかることがあった。
声が聴こえてくる前に、その日にあったことや、人と話したことなどをぼんやり考えているのだが、ある瞬間、その言葉=思考の流れが、自分の意識のコントロールを離れ、「勝手に」運動をはじめる。そして、ひとつの「誰か」の声となって聴こえはじめるのだ。その声は、どうも自分の声ではない。その声が映像に変換されて、意識に映じはじめる。
その時、身体はすでに眠りに入っており、動かせない。「ここだ」と思った瞬間にその流れから意識を引き離すと、ちょうど「金縛り」にあったときのように、身体は動かないが意識は醒めた状態になる。その状態はなかなかつらいので、再び眠りの世界に身(意識)をゆだねるのだが。
映像に変換されると書いたが、そのとき声は消えるわけではない。聴こえなくなったかと思える声は、しかし、映像の背後あるいは底流に音楽の通奏低音のように流れつづけている。通常は滅多にその「沈んだ」声に気づくことはないのだが、ときに(半覚醒状態のときといえばよいか)それをキャッチできることがある。
私はかつてこんな夢(夢に関する夢)を見たことがある。
ある映画館。スクリーンに映像が映し出されている。暗い館内に昔の映画館のように映写機から銀幕に投映される光の束が見える。映写機の光源から出る光がリールに巻かれるフィルムを通って映写幕にその像を映しているのだ。私は映画館のどこにいるのかわからない。どうも、映画館自体が私(の脳)のようだ。
同時にある模式図のようなものが目に浮かんだ。スクリーンに映っている映像が夢であり、フィルムは言葉、ひとつひとつのコマは「言の葉」というか声の一音一音で、それが光源の前をある速度で流れている。光源は、どういったらよいか、言葉を「見える」ようにするための意思(欲望)のようなもの。その意思が光となって声を透過して映像(イメージ)を、意識であるスクリーンに生成させている……。
映像の人影たちはそれぞれに何かを話しているが、映像自体の後ろには「別の声」がとぎれることなく流れており、その声はフィルムに焼き付けられた言葉=文字の「絵」と一体になった、イメージを生む「音」が声として聴こえているのだ。この声の主こそが、真の「語り部」である。
そして、じつをいえば、この「声」は夢を見ているときだけに関わらず、眠っているときも起きているときも、意識のどこかに「生の(裸の、要するにブリュットな)思考」として流れつづけている。夢を見るとは、その声の川にダイブして、流れに身をゆだねることなのである。
この夢は数十年も前に見たものだが、すでに紛失してしまったノートに図入りで記したことがある。一度、文字あるいは「絵」として書き(描き)意識化されたものは、記憶として定着され、頭のどこかにストックされるということだろうか。そして、なにかのきっかけによって、引き出されるのを待っているのか。
こうして、数十年も前の夢を、もう一度記すのは、失われたノートを再び見出そうとする試みなのだろうか。
声楽、器楽に関わらず、音楽とは、声にまで抽象化された音のつながり、流れである。声によって、映像としての「運動」に変換されたものが夢である。
見る夢。聴く夢。聴くように見ることがあれば、見るように聴くこともある。夢は視覚と聴覚の結婚を夢を見みている。


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コメント

“夢をめぐる断想ー2” への2件のフィードバック

  1. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    映画館と人間の「脳」のアナロジーは大変イメージしやすく秀逸なものと感心しました。
    ところで、つい今しがた読み終えた『世界を肯定する哲学』(保坂和志/ちくま新書)でも「夢という、リアリティの源泉または〈寸断された世界〉の生」と題して 夢に関して一章が割かれていました。
    今年初めに何と無く手にした著者の『カンバセイション・ピ−ス』に感銘を受けて その後色々読み漁っていますが、上記の「存在論/認識論」も中々に刺激的で読みごたえがありました。

  2. naohnaohのアバター
    naohnaoh

    夢見は、自身と自身の置かれたまわりの環境との応答だと考えられないだろうか。
    リアルな世界では獲得することができない充足感を仮想的に得て、心的な静謐に向かう代謝行為かもしれない。
    そこには、自分自身の神がいるかもしれない。求めれば無限の快楽を与えてくれる仮想的空間構造が夢の枠組みかもしれない。
    しかし、悪夢というのもある。強大な抑圧から逃れようとする無意識の中から、恐ろしい人知を超えた存在が現れてくる。そして悪夢の中から救いの神が出現する。
    日露戦争の前年、国の将来を憂えていた皇太后の夢枕に白衣の武士が立った。
    これは誰かと宮内大臣田中光顕に訊ねたところ、それは坂本龍馬でしょうと答えた。
    他人の夢に出てきた人を特定できるはずもないし、まったく無名だった坂本龍馬と答えたあたりに土佐藩士として龍馬の盟友だった田中の意図が垣間見える。
    戦勝後の日本海軍の軍神は坂本龍馬だということになった。
    夢は神から始まって神まで作ってしまうものかもしれない。

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