近ごろ、よく夢を見る。
夜ごと人は夢を見ているはずだから、近ごろ夢を見ていたことを覚えているといったほうがよいだろうか。
といっても、覚えているのは目覚め際に見た夢がほとんどで、寝床から出て顏を洗うまでのうちに忘れてしまう。夢を見たことの記憶だけがのこる。
しかし、覚えていない夢を夢と呼べるだろうか。
いまは昔、枕元にノートをおいて、目覚めたらすぐに夢を記していたことがある。青春のある一時期のことにすぎないが、その頃は「夢見の技術」とでもいうか、夢とそれを書くことのあいだに通路ができて、夢が現実のように鮮明になり、現実が夢のようにさまざまな一通りでない「意味」を発しているみたいな、それをある程度「操作」できるようにもなったもので。
ある意味で、とっても「危ない」日常だった。
西郷信綱が言ったように(『古代人と夢』)、夢はいつのころからか見るものでなくなり、持つものとなった。夢を持てとは言われるが、夢を見るということは、どこか後ろめたい、というか揶揄するような否定的なニュアンスがそこに込められる風になった。
しかし、現実といわれるものが「輝き」を失い、つまらぬ書割り程度の現実性しか持たぬようになったのは、夢が持つものとしての夢に偏ってきたこととパラレルなのではなかろうか。現実(リアル)と現実性(リアリティ)とは、近い言葉だが、分離され相反するものとしてあるのがいまの「現実」である。リアリティの根拠は、じつは夢である。
夢は無意識の活動であるとして、それを「見る」というからには、そこに意識(理性)のはたらきが介在する。
すっかり途絶えていた夢の記憶がわずかながら意識に浮上してくるようになったのは、持つ夢さえ持つことの困難な社会のなかの自分への、無意識からのシグナルをキャッチしバランスを保とうとする「心」のはたらきなのだろうか。
持つことも見ることなしにはありえない、のかもしれない。
もう一度、夢に目覚めよ、ということか。
夢をめぐる断想ー1
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コメント
“夢をめぐる断想ー1” への4件のフィードバック
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夢の話、大変面白く伺いました。
覚えていない夢を夢と言えるだろうか? という疑問は確かにありそうですね。
この場合の「覚える」は、言語として再現できるか、ということになりそうですけれど、僕も夢を見ますがどうにも言語化しにくいものが多いようです。例えば生理的に嫌な感じだったり、あるいはいい音楽を聞いたときの高揚感だったりと、そのような感覚的なものが、現実の生活で感じるよりも、夢の中の方がよりリアルだということがよくあります。でもこれはなかなか人に言語として伝えにくいものですよね。
また、実際にはありえないことなんですが、夢の場にいる自分の意識を、相対的に見ることができる「もう一人の自分」が登場することも、僕の夢にはよくあります。
夢のない時代に、夢の話をするというのも、無意識からのシグナルなのかもしれませんね -
やはり、夢には普遍性があるのですね。
コメント、大いに共感しながら拝読いたしました。
特別ネタがないときでも、夢に関してなら、いくらでも書けるような気がします。
というか、夢を書く、夢について書くということは、書くということ、あるいは思考することの原点でもありそうです。
また、書きます。 -
苦しい時には、よく夢を見ました。
現実から逃避して楽しいことを考え、壊れた心を修復するための身体に内在する無意識の防御機能だなと理解していました。
しかし、この時の夢は、美しい女性や美味しそうな食べ物、楽しい旅行など即物的なものばかりでした。恥ずかしい話ですが、目覚めた時に夢によって
身体に活力が戻っていました。
夢は見るものから、持つものにかわるというのは腹に落ちます。
ですが、持つ夢というのは、言語や論理によって導かれるものになるのでは
ないでしょうか。
「こう在りたい」という願いの、「こう」というところに既に論理があり、「在りたい」にも、論理があります。
以前から何度も紹介していますが、釈尊の「あなたは、あなたに成ればいい。あなたは、あなたに在ればいい。」という言葉に、自己の近い変化型としての夢を感じます。 -
最近は「夢」を見ることも持つこともめっきりとご無沙汰の索漠とした日々を過ごしているようです。
本当に 出来たら「、、、夢と知りせば覚めざらましを、、」などとうそぶいて見たい気も、多いにしています。
ただ少し的外れかも知れませんが、今年生誕200年になるショパンのいくつかのピアノ作品をぼんやり耳にしているといつしか「夢の世界」に誘われていることが度々あり、私にとっては「夢」は視覚で見るものではなく聴覚で聴くもののようです、、、
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