超訳『ニコマコス倫理学』第1巻 第10章

 <前半>
 であるなら、生きている間はどんな人に対しても、あの人は幸せだとか不幸だとかいうべきじゃないのであって、ソロンに従って、そんなことはその人が「死んだときにしかわからない」とすべきなんだろうか。でも、それが正しいのなら、人は死んでみなきゃ幸福か不幸かわからないってことになってしまうわけで、それってどうなんだろう? もしそうなら、なんだかおかしなことになりはしないか。私たちは、幸福っていうのは「生命」のある程度活発な活動だといっているのだから。
 だから私たちはある死者を指してあの人は幸福だとは言わないし、ソロンの言葉もそういう意味ではないだろう。また逆に、人間も死ねばもはや悪いことや悲しい目に遭うことはないのだから、それこそ安全で幸せなんだと言えるかというと、この言い方もなんかしっくりとこない感じがする。
 というのも、生きている人にとって気がつかないけど存在しているっていうものがあるように、死人にとっても、死んでいて当人にはわからないけど、なんらかの悪や善が存在しているんじゃないかと考えたくなってしまうことがある。たとえば、その死んだ人の子どもたち、つまり何代かにおよぶ子孫の名誉と不名誉、栄華と没落っていう変転は死んだ後もつづくわけで……。その点がやはり、ひっかかる。
 老齢になるまで幸せな人生をおくり、それにふさわしい最期を迎えた人の子孫が、幾多の災厄に遭遇することだってあるのだし、子孫のなかに善良で見事な生涯を遂げる人間がいたとしても、あとはその正反対の人間ばかりだったりと、その亡くなった祖先と子孫の生き様がさまざまに異なることは明らか。だから、もし死者までが子孫の転変にいちいち影響されて、あるときは幸福に、またあるときは不幸になったりするというのはどうみても変である。しかし、かといって、子孫の境涯が祖先のそれとある限定された範囲においてもまったく無関係であるとするのもおかしい。
 しかし、話を戻そう。この問題もそうすることで解決の糸口がみつかるかもしれない。
 
 幸福かどうか、私たちはその人の最後の姿を見届ける必要があり、もし死者の安定を幸福と呼ぶような意味でではなく、じっさいにその人が死ぬまでの人生でそうだったということでなら、そのとき彼を幸福な人と呼ぶことはまちがいではないだろう。
 しかし、彼が”いま”幸福である場合、現に生きている人を指して幸福であると断定するのは、この先彼の身に何が起こるかわからないのだからそうとはっきりいえないという理由から、また、幸福とは持続的にとらえるべきものであって、簡単にころころ変わるものではないはずなのに、同じ人間についてもしばしば運不運の変転がみられるという理由から彼が幸福であるといえないんだとしたら、それもなんだか変じゃないか。
 もし、いちいちのことを好運か不運かで測っていったなら、その人が幸福か惨めかそのつど何度もひっくり返ってしまい、カメレオンのように変化する一貫性も落ち着きもない人と見られてしまうことは明らかだ。
 ということは、つまるところ、運不運のいかんで幸不幸を決めようとすることがそもそもまちがっているんじゃないか。好運か不運かのうちに善(幸福)と悪(不幸)があるのではなく、それらの運は人間が生きていくうえにおいて外から付加されるにすぎないものであって、幸福のために決定的な意味をもつのは、やはりアレテー(卓越した能力・技量)に則した活動にほかならないのである。反対(不幸、惨めさ)もまた、そのありようにもとづくものなのだ。
 ということで、こうした問題の検討も私たちのこれまでの定義を補完することになる。
 すなわち、人間のいかなるはたらきといえども、アレテーに則した活動ほど安定的なものはないでろう。じっさい、このアレテーによる活動は、諸々の学問の探究以上に持続的なものであると考えられるし、その活動のうちでももっとも優れて敬うべき活動ほど持続性を具えているものなのである。しかも、幸福な人はその活動に持続的に生を捧げるものであるゆえに幸福なのだといっておきたい。またそのことが、アレテーに則した活動に断絶や忘却ということが生じない原因とも思われる。
 このように、アレテー(その人ならではの卓越的能力)に求められるところの持続性は、幸福な人の身にははじめからそなわっているものであり、幸福な人はその生涯を通じて幸福なのである。なぜなら彼はいつだって、他のだれにもましてアレテーのままに実践し、アレテーのままに思考するだろうし、いろいろな運不運に左右されずに、その都度もっとも充実したかたちで好運を適用し、不運に耐えてゆくだろうからだ。彼こそが善なる人、詩人シモニデスのいう「完全なる正方形」の人なのである。(後半につづく)


 <後半>
 ただ私たちの人生において、その大小は異なるにしても、さまざまな偶発事が起き、身に降りかかることがあるのは事実である。小さな出来事であれば、その好運と不運のどっちであっても私たちの生き方を左右するものではない。しかし、それが大きな出来事であり、しかも頻繁に起こる場合は、好運はその幸福な生活をなおさら悦びの大きなものにするし(善なる人はそれをさらによきこととして活かすであろうから)、反対に度重なる不運は幸福の悦びを殺ぐものとして作用するだろう。
 だが、そういうことがときにあるとしても、もし数多くのつらい不幸な出来事を、苦しみに対する無感覚ゆえにではなく、その品性と矜持によって泰然と耐え得るならば、その不運のなかから幸福は輝き出るものなのである。
 もしこれまでに述べたように、よく生きること、すなわち幸福において決定的な力を持つのはエネルゲイア(活動、現実態)であるならば、幸福な人はどんな場合でも惨めな人であることはない。この人はいかなる不運な状況にあっても憎むべきこと、愚劣なことをおこなうことはないからである。
 真に善き人、賢き人は、どんな運命をも見事に耐え抜き、その場に与えられてあるものをもとに、常に最善のことをおこなうもの。よき将軍は手持ちの軍隊を最も効果的に動かすものだし、靴職人は与えられた皮革から望み得る最高の靴をつくり、他の職人たちも優れた者ほどそうであるのと同様である。
 だからこそ、アレテーを十全に発揮する幸福な人は、どんな逆境にあっても惨めな存在になることはないのだ。ただプリアモスのような運命に陥った場合においてだけ、至福(マカリオン)というにはほど遠いものがあるというにとどまる。
 したがって、幸福な人にはそれ(幸福のあり方)が種々様々だったり、ころころ変わったりといったことはありえない。なぜならば、世間でよくいわれるような不運な状況に陥ったくらいで彼は幸福から転げ落ちることはない、ただあまりに度重なる大きく不幸な事態によってのみ動揺させられることがあるのみだからだ。
 そんなときは、短時間で再び幸福な人間に戻ることは不可能である。もう一度幸福になることがあるとすれば、それには多くの歳月が必要であり、その間に大きな幸運にも恵まれることがなくてはならない。
 ということで、幸福な人とは究極的なかたちでアレテーに則して活動している人であり、外的な善(幸福)の機会にも十分恵まれている人である、しかも任意のある期間だけでなく生涯にわたってそうであると、私たちが主張することは間違っているだろうか。私たちには、それは「そのように活動しつつ、それにふさわしく生をまっとうする人である」と、あえて付け加える必要もなかろう。
 未来は人間にとって不確かなものである。しかし、幸福はあらゆる意味において目的(テロス)であり、究極のものでなくてはならないことはすでに述べた。もしそうであるならば、生きてあるもののうち、以上の諸条件を満たしている者、未来においても満たすであろう者こそが至福の者であり、幸福な人間であることはいうをまたない。
 このことに関して、きょうはここまでにしておこう。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)