超訳『ニコマコス倫理学』第1巻 第8章

 そうはいっても、この善=幸福の考察にあたって私たちは、私たちの結論もしくは前提をもってそれでよしとするのではなく、一般の人々の考えや言うことにも耳を傾けねばならない。私たちの考えが正しければ現実の諸相がそれと唱和するだろうし、間違っているなら不協和音を響かせるだろう。
 
 ところで、善はだいたい三つに分けることができる。外的な善と内的すなわち魂に属する善、そして身体に関わる善である。人々は魂によるところの善が最も優れた善であるとみなしているが、しかるにそれは、魂のはたらきとしての行為であり活動にほかならない。
 
 したがって、私たちの考察は、古くからあり哲学者からも支持されてきたこの見方に対しても適合するものでなければならないが、そのはたらきや活動こそが究極の生きる目的であるという点において、先の私たちの規定は正しいといえるだろう。
 なぜなら、このような観点からいって、はたらきや活動といってもそれは外的な善ではなく、魂に属する善にほかならないからだ。
 また、私たちの議論の重要なポイントである、幸福な人は「よく生きている」人であり、「よくやっている」人であるという考察にもそれは適合する。私たちは幸福とはよく生きることであり、魂のよきはたらきであると規定したのだ。
 しかもそれだけでなく、幸福とは何かに関してのさまざまな見方は、ことごとく私たちが述べたことのうちに含まれていることがわかるだろう。
 ある人は幸福をアレテー(徳、卓越性)と同一視し、ある人は実践的な知恵を、またある人は哲学的な知を幸福と捉える。さらにある人は快楽こそを、あるいは快楽が不足していない状態を幸福とし、別のある人は外的に豊かで恵まれた境遇にあることが幸福であると付け加える。
 これらの考えは昔からあり、多くの人々に支持されるものがあれば、少数だが有能な人々に保持されている見解もあり、どちらにしても共に完全に間違っているということはなく、むしろある点で、あるいは多くの点で正しいといってよいほどである。つまり、幸福をアレテーと同一視する人々の見解と私たちの考察は一致するのだ。アレテーによる活動を行うことは、アレテーそのものだからである。
 ただし、最高度の善を「所有」にあるとするか、あるいは「使用」することだととるか、また、それはある心的な待機状態(ヘクシス)を指すのか、活動(エネルゲイア)することに存するのか、その認識の違いがもたらす差異は決して小さなものではない。というのは、アレテーは心的な状態(あるいは傾向、ヘクシス)としてとどまっている限りは、まったく善をもたらすことがない場合もあるが——たとえば眠っているときや、身心が不活発なとき——、活動(エネルゲイア)においてそのようなことはありえない。
 というのは、活動する人は、文字通り活き活きと動いてはたらく人なのであり、それも「よくはたらく」ことがアレテーとして必要なのであるから。それはオリンピック競技において、勝利の栄冠を戴くのはただ最も体格がいいとか最も力が強いというだけの状態の者ではなく、じっさいに競技をする人(競技を行う人のなかから勝利者が決まるのだから)であるのと同様である。
 人生で最も気高く望ましい善を成し遂げるのは、その持てるアレテーを正しい仕方で活かし、はたらかせることのできる人なのである。
 そんな人々の生は悦びに満ちている。快を得ることは魂にとって善であるといってよいが、それぞれ人が好み愛する対象となるものそれ自体が生きる悦びにほかならない。たとえば馬を愛する人にとっては馬が、芝居が好きな人には観劇が快であるのと同様に、正しい行いは正義を愛する人にとって、また、アレテー(卓越的な能力)に則したはたらきのほとんどはそのアレテーを愛する人にとって悦びそのものである。
 
 多くの人々にとっては、快いものが互いに相容れないものであったりすることがあるが、その場合はそれらが本性として快いものではないことによる。善なる事柄を愛する人々にとっては「本性的に快いもの」こそが悦び=善なのであって、アレテーの発揮としての行いはまさにそのようなものなのである。人々にとってそれが悦びであるのは、それ自身が快適な事柄であるからなのだ。それ自身のうちに快を含んでいるのだから、このようなアレテーを発揮する人々にとって、さらにそれを飾り立てようとするような付け足しの快楽などはまったく不要である。
 もっといえば、じっさいのところ、善き行いに悦びを感じない人は善き人ではない。正しいことを行うのに悦びを感じない人を正義の人といったり、寛大なはからいをするのに悦びを感じない人を寛大な人とは呼ばないのと同様である。
 もしそうであるならば、アレテーに則したはたらきはそれ自体が快い悦びでなければならない。そしてさらに、それは善であり美でもあるのだ。しかも、その最高の状態において、それらであることをやめないのである。それは、その人の悦びとなるものの選択的判断が適切である限りにおいてだが、この場合その人はいま述べたような適切な判断を行ったということになる。
 ということで、幸福は最高の善であり最高の悦びにあふれたものであるが、さらに、これらはそれぞれ別個にあるものではない。かのデロスの銘にはこうある。
  最もうれしいのは他より秀でて正しいこと
  最も良いのは健康であること
  最も快いのは、自分の
  愛するものをおのれのものにすること
 このような複数の要件が、最高の善である活動においてはすべて渾然と一体になっているものなのだ。要するに、このような諸々の要件を満たす個々の活動が合わさるか、あるいはこういってよければ、最高度の善であればその一つであっても、そこにはいくつもの要件が充足されるのだから、それは「幸福」にほかならないというのが私たちの主張なのである。
 しかしまた、すでに述べたように、幸福になるためにはやはり外的に豊かな条件や環境が必要であることも確かであろう。つまり、善き行いをするといっても、それを実行する機会のまったくない人には行為自体が不可能なことだし、不可能でなくともそれが困難をきわめたものになるのは確かであろう。どんな行いでも、そのほとんどは、友や富や政治的な力関係があってこそ実現できるのであり、それらがないときには幸福の達成に支障を生じる場合があることはいうまでもない。
 たとえば、生まれのよさとか、よい子どもに恵まれるとか、容姿が美しいとか——。容姿がはなはだ醜かったり、卑しい生まれだったり、子どもがまったくいなかったりという人は幸福になるのが難しい。また、もし子どもや親しい人々がいても、彼らがひどく荒れた状態であったら、あるいは、よい人々であっても死んでしまったらなおさら幸福はほど遠いところへ行ってしまうであろう。
 ということはつまり、幸福にはその人の置かれた環境や状況など、好ましい条件がそなわっていることが必要であるらしい。アレテーに準じて生きることが即ち幸福であるとするのと異なり、ある人々はとっては好運(エウテユキア)が幸福と同一視されるのもそれゆえなのである。


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