超読解『ニコマコス倫理学』第1巻 第6章

 第6章
 ここで普遍的な”それ”(善のそれ)の問題を考察し、”それ”がどのようなものなのか言及しておいたほうがよいだろう。そのことで、「形相(エイドス)」、すなわちイデアなるものを考え出した私たちと親しい人々との間柄がぎくしゃくしようとも。真理の探究のためにはそれもいたしかたのないことである。それが、フィロソフィア(哲学者、知<ソフィア>を愛する<フィロ>者)である私たちの義務である。真理も交誼もともに敬わねばならぬが、どちらかといえば、ここでは親しい人々への情よりは真実に対する忠誠心のほうを尊重しなければならない。
 このイデアの仮説を採り入れた人たちは、その前とか後(うしろ)、その先とか後(あと)があるもの、つまり段階とか等級があるものについてはイデアの存在を想定しなかった。彼らが「数」のイデアというものを考えなかったのもそのためである。ということは、「善(アガトン)」という言葉は本質においても、質や関係においても使われるし、また、それ自身で独立してある”実体”はその本性上”関係”に先立って存在するのだから、多様な善のあり方すべてにかかる共通の一なるイデアはありえないわけだ。
 さらにいえば、「善」は「存在(有、オン)」のあり方と同じだけ多くの仕方である。つまり、たとえば、実体に関しては神やヌース(直観的知性)が、質は諸々のアレテー(徳、技量)が、量にあっては適度であることが、関係としては有益性が、時間にあっては好機(カイロス)が、場所では適所が、それぞれ善である。つまり、すべてに共通の普遍的な一なる善(善のイデア)などというものがないのは明らかなのである。
 というのも、もしそのイデアがあるというのならば、このようなさまざまな範疇(カテゴリア)すべてを包含するのではなく、ある特定の範疇においてのみ適合するのでなくてはならない。
 さらにまた、一つのイデアに対して一つの学問があるのならば、すべての善に共通する一つのイデアについての一つの学問がなくてはならない。しかし実際は、一つの範疇に多くの善が関連していて、そのすべての善についてその数だけ学問がありうるのである。たとえば「好機」という善の範疇を見ても、戦争においては戦略論が、病気においては医学がその「時」の見きわめ方を研究し、「適度」ということでは食事に関する栄養学が、肉体運動については体育学が学問としてあるのだ。
 「人間」ではどうだろう。「人間というもの自体(アウトアントローポス)」でも個々の人間でも、その言葉(ロゴス)は同じ「人間」であるならば、人間という「ものそのもの(アウトヘカストン)」とはいったいなにを意味しているのであろうか。というのも、「人間というもの自体」も個別の人間も、人間ということでいえば同じであり、そうであれば、「善というもの」それ自体も個々の善も、善であるかぎりにおいて違いはないのではなかろうか。だとするなら、善というイデアは永遠のものだから、それは個々の善より優れて善であるなどということはいえないはずである。イデアとしての白は永久に白だから、じっさい時間がたって汚れる白と比べ、より白い白であるなどといえないのと同様である。
 ピタゴラス派の人々は「1」を諸々の善のうちの一つとするが、それは善を一つしかないとするイデア論者たちよりは同感できることである。プラトンの甥のスペウシッポスも、彼らの考えに従っていると思われる。
 しかし、この議論の詳細は別の書(『形而上学』)に譲り、これまで述べてきたことに対する異論について触れておこう。それはこういうものである。
 イデア論者たちの所説は、個々のあらゆることに善があるのではなく、「即自的」に、つまりそれ自身において追求され好まれ、一つの形相に帰されるところのものが善であるという考えだ。これとは別に、これらの即自的な善をもたらしたり、それを保持したり、あるいはそれを妨げるものを排除したりするものがあり、それも善であるが、即自的な善とは別の意味における善であるという。だとすると、善には明らかに二通りあることになる。即自的な善と、その善を善たらしめるための善である。
 そこで私たちは、即自的によきもの(善)をよきものとして表象し具体化するものから切り離したうえで、即時的な善とは、単一なイデアに基づいた善のことなのかどうかを検討してみよう。
 「即自的な善」とはいかなる性質の善を指すのだろうか。それはそれのみで価値あるところのもの、つまり知とか見る(わかる)こととか、ある快楽とか名誉とかを指すのだろうか。これらは他の何かのために私たちが追い求めることがあるものだとしても、おそらくそれ自身でよきもの、「即自的な善」に帰すべきものでもあるといえるだろうからだ。それとも、善のイデア以外に即自的な善などありえないのだろうか。そうだとしたら、その形相(イデア)のなんたる空疎であることか。
 だが、もしいまあげたものがそれ自身でよきもの(善)に属するのであるなら、善のロゴス(言葉、定義)はこれらすべてにおいて共通のものとして表すことができなければならないだろう。たとえば雪においても綿花においても、白の定義において同一の白であるように。しかしながら、善であるかぎりの名誉・知・快楽の定義としてはそれぞれに相違があり、同一のロゴスに属することはない。したがって、善はここでもやはり、単一のイデアで包摂されるような同じものではないことになる。
 しかし、それにしても、なぜ、これらのそれぞれに異なるものが「善」といわれるのだろうか。ただの偶然として、たまたま共通して善と呼ばれているだけとは思えないのである。繰り返すが、それは一つの善に由来しているがゆえに、あるいはすべてが一つの善に帰着するがゆえにそうなのであろうか。あるいは、むしろ、類比(比喩、アナロギア)として似ているからそう喩えられるからだろうか。類比というのは、たとえば、身体における眼は魂における知性のそれである、などといったような比較が成り立つことであるが。しかし、もう一度言う。この件のこれ以上の厳密な考察は、別の「第一の哲学」による論述、すなわち『形而上学』に譲ろう。
 イデアについても同様である。たとえ、あらゆる善を一つに束ねて語れるような、あるいはそれ自体で独立した単一の善が存在するとしても、それが人間の行うべき善、獲得すべき善でないことは明らかだろう。いまここで私たちが探究しようとしているのは、まさに、そうした私たち生きている人間にとっての善なのである。
 そうだとしてもなお、人は「善そのもの」を知っているほうが、行うべき善を行うために、そして獲得すべき善を獲得するためにいいことなのではないかと考える向きもあろう。「善そのもの」を知っているほうが、私たちにとって何が善かわかりやすく、善に到達もしやすくなるのではないかと思うだろうからだ。
 この考えにはもっともな面もあるが、しかし、現実の諸々の学問の趣旨に背を向けている。あらゆる学問が何らかの善を目指していることは事実だが、それはその学問に欠けているものを探求し習得するためであって、「善そのもの」の知識を得るためではない。こんなことを、その学問や技術・芸術の専門家が心得ぬわけはないだろう。じっさい、機織りや大工の匠が「善そのもの」を知ることで、彼らの技術にとっていったい何の益があるだろうか。善のイデアを理解した人が、医療や軍事の能力にそれ以上なにを加えることができるというのだろう。
 事実、たとえば一人の医者がつねに気にかけているのは観念的なイデアとしての「健康」などというものではなく、人間自体の健康であり、もっといえば、具体的なあの人やこの人の健康にほかならないのである。この医者は、イデアに対してではなく、個々の病人に対して医療を施すのであるから——。
 今回の講義はここまでにしておこう。
 


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“超読解『ニコマコス倫理学』第1巻 第6章” への1件のコメント

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    iz

    『ニコマコス倫理学』 第1巻 第6章 《小川雄造・私/試訳》
     第6章 <善のイデア(形相)がある、という議論>
     我々はたぶん、普遍的な善を考えた方が良くて、そのことで何が意味されるかを徹底的に議論した方が良い。たとえ我々の仲間によって形相が導きいれられたことで、そのような研究が困難なものになったとしても。
     その上、それは実に我々の義務として、特に我々は哲学者または智の愛好家として、たとえ我々に密に影響を及ぼすものを壊すにしても、真実を主張するためにもより良いと考えられるだろう。 
    というのは、ともに大切ではあるが、信心は友人以上に真実を敬うように我々に要求するから。
     この教義を取り入れた人は、それによって事前と事後を認識する等級/階級のアイディアを措定しなかった(それは、総ての数を包含するイデアの存在を主張しなかった理由である)。
     しかし、“善”という言葉は物質/実質という範疇でも、質という範疇でも、関係という範疇でもともに用いられ、そしてそれ自体(すなわち物質/実質)の範疇は本性的に関係の範疇より優先する(というのは、後者は派生物のようなものであり、存在の偶有であるから)。
     ということで、総てのこれらの善に適合する共通のイデアは存在しえない。
     更に“善”は“存在”としての多くの意味を持つので(というのは、それは物質/実質の範疇として、神の、もしくは理の、質の範疇として、例えば徳の、量の範疇としての、例えば適度の、関係の範疇としての、例えば有益の、時の範疇としての、例えば正しい機会での、場所の範疇としての、例えば正しい場所/現場の、などのように断定されるので)。
     それは、明らかに、あらゆる場合に普遍的に存在する単独な何かであることは出来ない。このことから、それは総てはなくてただ一つの範疇で断定されうる。
     更には、一つのイデアに答えるのに一つの学問があるように、総ての善についての一つの学問がありうる。しかし、実際には、一つの範疇に拘わる多くの事柄に関してさえ多くの学問がある。
     例えば、機会という範疇については、戦争における機会は戦略学によって研究され、病における機会は医学で研究され、食料における適度さは医学で研究され、肉体運動における適度さは体育学で研究される。
     また、もし (この事例の場合で)‘人自体’そして個別の人についても、人に関する理論/学説が一つで同じものならば、いったい彼は‘物自体’で何を意味するかと問うてみることはできる。というのも、それが人である限り如何なる点でも違いはなく、もしそうであるなら、それが善である限り“善自体”も特別な善も違いがないのだから。
     しかし、もう一度言えば、善が永遠であれば、より善であるということにはならない。というのは、長く永続するものが、一日で崩壊するものより、より白いとは言えないから。
     ピタゴラス派の人々は「1」を諸々の善の欄の中に擱くことで、善に関するよりもっともらしい説明を与えたようにみえる。そしてスペウシッポスもこれに従ったようにみえる。
     しかし、これらのことはどこか他の所で議論しよう。
     我々が述べたことに対する異議は、プラトン主義者たちが総ての善に関して語っていなくて、そして、それら自身のために追い求められ好まれる善は単一の“形相”に関連して善と呼ばれるのに、一方、それ自身をなんとかして生み出したり維持しようとしたり、その反対物を防ごうとする善は、それらの理由から、また違った仕方で善と呼ばれるという事実に認められるかも知れない。
     それから、明らかに善は二通りの方法で語られなければならない。
     それは、あるものはそれ自体で善であるべきであり、他のものはそれらの理由により善であるべきである。
     そして、我々はそれ自体で善であるものを有用であるものから区別し、前者は単一のイデアに関連して善と呼ばれるかどうかを考察しよう。
     どのような種類の善を、ひとはそれ自体で善であると言うのだろうか?
     それは知性とか見識(視野)とかある種の歓びや名誉のように、他のものから孤立してでも追い求められるものがそうなのか?
     確かに、もし我々がこれらを他の目的の為に追い求めるならば、まだひとはそれをそれ自体の善であるものの中に位置づけるだろう。
     それとも、“善のイデア”以外の何物でもないものがそれ自体で善であるのか?
     その場合、形相は空虚となるであろう。
     しかし、もし我々が名づけたものが、またそれ自体で善なるものならば、善の記述は総てそれ自身と同一の何かとして現れざるを得ないだろう。それは、白色の記述が雪でも鉛白でも同じであるように。
     しかし、ただそれ自体の善についての名誉、知恵、愉楽に関しては、それらの定義は異なっており多様である。したがって、善は一つのイデアに共通に対応する何物かではないことになる。
     しからば、しかし我々は善で何を意味させるのか? それは確かに、ただ偶然から同じ名前を持つことになったもののようではない。それでは、善きものは一つの善に由来するのか、一つの善に貢献する総てのものによるのか? あるいは、むしろ類推よって一つの善なのか?
     確かに、視覚が身体の中にあるように、理性(判断力)は魂の中にあり、他の場合も等々である、、、、。しかし、多分、これらの主題はさしあたり忘れおいた方がいいだろう、、、。
     というのは、それらに関する完全な正確性は哲学のもう一つの部門で扱った方がよりふさわしい。
     そして、イデアについてもこれと同じである。
     もし、普遍的に善を断定できる、または別個の独立した存在になりうる一つの善があるならば、明らかにそれは人間には到達または獲得され得るものではない。 
     しかるに、我々はいまは獲得可能なものを求めているのである。
     しかし多分、人は獲得や到達の可能な善の観点をもってそのことを知る方が価値があると思うかもしれない。というのは、これを模範の一種と捉え、我々は我々にとっての良い善をより良く知るだろうし、もしそれらを知れば、それらを達成もするだろう。
     この議論は幾分のもっともらしさを持つが、学問の手順とは一致しないようにみえる。
     というのは、それらはある善を目指し、その不足分を埋め合わせしようと努めるにしても、総ての学問は善に関する知識を一つの隅に残したままにしておく。
     ましてや、総ての技芸の主唱者はそれ程大きな助力を知らないでいるべきで、そして求めることすらすべきでないというのは、ありそうにもないことである。
     そして、織工や大工がこの“善自体”を知っていて彼ら自身の技術に関して如何に恩恵をうるか、また、イデア自体を観た人が、それによって如何により優れた医者や将軍になるかを知るのは困難である。
     というのは、医者はこのような方法で健康に関して研究するのではなく、人間の健康というよりも特定の人の健康を研究するように見える。彼が治療しているのは夫々の個人である。
     しかし、これらの話題はこれで十分だ。

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