超訳『ニコマコス倫理学』第1巻 第3章

第3章
 しかし、そうはいっても、私たちは私たちの研究対象の究明にこだわるあまり、完璧な論証をめざして汲々とすべきではないだろう。というのは、あらゆる問題にたいして論理(ロゴス)を極めるようなやり方で厳密性や完全性を求めることに無理があるのは、詩作などのクリエイティブな行為の場合と同様だからである。政治学の考察にふさわしい対象は、多くのさまざまな差異と微妙な揺らぎを含んでいて、それらは人為(ノモス)的なものだけであるように人々は思いがちであるが、自然(フュシス)において生じる事象についても同じである。
 「善なるものごと」すなわち「よきもの」「よきこと」といっても、それらはみな微妙な違いを含んでいるのであり、「善」(よきもの)であるといわれているものごとから害悪が生じる場合も少なくはない。じっさいこれまでにも、ある人々はその富の追求ゆえに、またある人々はその恐れを知らぬ勇敢さゆえに身を滅ぼしたりしてきたのだから。
 そういうわけで、私たちはこのような善なる事柄の性質の一部から論じはじめて、荒削りで大雑把にしろ、そのだいたいの大まかな「真実」の全体像を垣間見ることができるならば、それでよしとすべきであろう。つまり、おおよその事柄を、おおよそのはじまりから論じて、おおよその結論に到達できるならば、それでそれなりに満足しておかなければならない。
 これらの探究や考えを受容する側にとっても、やはり同様の心構えでことに臨むことが肝要である。つまり、画一的にその全てを求めるのではなく、対象がもつ性質にふさわしい程度の精確さを、該当するそれぞれの領域に応じて求め与えることが教育というものなのだ。その場の思いつきで計算の仕方を変えることが数学者には許されないのと同時に、語り部(レトリコス)に厳密な論拠を示すよう要求するのも誤りであるといわねばならないのである。
 また、人は自分の知っている事柄についてこそすぐれた理解を示し適切な判断力を行使できるように、ある領域について教育を受けた人はその領域の事柄について、さらに、あらゆる領域のあらゆる事柄について教育を受けた人はあらゆる場合において、よき理解者であり判断者であることができる。子どもや年少者たちが政治学の勉強をすることに適していないのはそのためである。
 というのも、彼らはまだ人生経験に乏しく、政治学の諸々の研究や教育は、まさに人の生き方や暮らし方全般を対象にすることからはじまり、これらについて論じるものだからである。また、さらにいえば、子どもや若者たちは、さまざまな外からの刺激に感情(パトス)のみで反応しやすいため、こうした教説を聞いても役に立たず、彼らにとっては無益なものと映るだろうから。
 このようにいうのも、人生全般にわたる探究においては、多くの知識を得ることが目的ではなく、いかにその探究を実践に活かすかが目的だからである。そのため、じつは、年端のゆかぬ者も、またある年齢に達してはいても教養もないままに文化的習性(エートス)を身につけていなければ、その点は同じである。なぜならこの場合、人としての未成熟さはその年齢、すなわち生きてきた年月の多少ではなく、どんな物事もそのときの気分や受け身の感情(パトス)で受け入れ、その気分のままにさまざまな事態に従うという性状に関係しているからである。
 このような人々にとっては、年齢に関わらず、なんでもかんでも自分の思い通りにしたがる人と同様に、いかによく生きるかという知識や知恵などは無用なものなのだ。正しい言葉(ロゴス)にそって願望を抱き、その実現に向けて行為する人々にとってのみ、これらの「善」に関する事柄を学び、その知識や知恵を得ることはきわめて重要かつ有意義なこととなるであろう。
 以上、聴講者のみなさん、本講義の企図と方法を述べたところで、これを私たちの探究のプロローグとしたい。


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“超訳『ニコマコス倫理学』第1巻 第3章” への1件のコメント

  1. izのアバター
    iz

    『ニコマコス倫理学』 第1巻 第3章 《小川雄造・私/試訳》
    第3章 学問の本質
     我々は対象が許す以上の正確性を望むべきではない。学習者は、思慮分別の年齢に及ぶべきである。
     もし、主題/内容が可能性を認めるまで明解になったら、我々の討議も十分であろう。というのは、総ての技術の産物に求められる以上に総ての議論に同等に正確性が要求されているのでは無いから。
     政治学が研究する立派な正義の行動は、多くの多様性と変動を明示するので、自然からではなく単に慣習から存在すると考えられるかも知れない。
     そして、善は同様な変動/不安定さを提示する。というのは、それは多くの人に害を齎すから。
     なぜなら、これまでにある人々は自身の富により、また他の人々は自身の勇気により破滅しているから。
     そこで我々は、そのような前提でそのような主題について述べるのに、真実を大まかに輪郭として述べることで満足すべきである。
     そして、同様の前提でただ大半の部分が真実なことに言及するとき、それはそれほど良くないと結論付けるべきである。
     従って、同じ精神で各々の型の言説を容認すべきである。   
     と言うのは、主題の本質が許す範囲まで物事の各水準での正確性を追求するのが教養のある人間の徴だから。
     数学者からのありそうな推論を鵜呑みにしたり、雄弁家から論証的な証拠を求めるのは、同様に明らかに愚かなことである。
     今や各人は、彼の知るところを良く判断し、彼の知ることについての良い判断者である。
     従って、ある主題について教育を受けた人は、その事柄に関しての良い判断者であり、全人教育を受けた人は一般によい判断者である。
     したがって、若い人は政治学の講義に関する相応しい聞き手ではない。  
     というのは、彼は人生で起こる活動/行動に未経験であるのに、政治学の討議はそれらから始まり、それらに関するものだから。
     そしてさらには、若い人はその情熱に従いやすい為、彼の探求は無駄となり利益を齎さない。なぜなら、究極の目的は知識ではなくて行動/活動だから。
     彼が年齢で若いのか、性格として若気なのかは問題では無い。欠陥は時間に係っているのではなく、彼の生活、そして情熱が指し示すまま夫々の連続する目的を追い求めるかどうかに係っている。
     そのような人物に、自制の効かない人の様に、知識は何の益も齎さない。
     しかし、合理的な原則に合致して望み行動する人には、そのような事柄に関する知識は大きな利益となるだろう。
     これらの学習者に関する(期待される対応の種類とか、探求の目的などの)言及は、われわれの序言として位置づけられる。

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