超訳『ニコマコス倫理学』 第1巻 第1章

 幸福論の古典であり決定的名著であるアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の超訳を、今後、不定期ですが掲載していきます。
 ただでさえ難解とされるアリストテレス哲学、その学問的な厳密さを追求すると、とてもギリシャ語の読めない私など素人の手に負えるものではありません。それを承知のうえで、ほとんど日本では読まれることのないアリストテレスの哲学を、できるだけ平易に紹介すること。いまという時代にこそ必要と思われる彼の考え方、思想、その概念を、読みやすい日本語にしてみること。
 ここでの目的は精緻で精確なアリストテレス理解ではなく、彼の概念を現代社会という臨床の場に生かすことです。「わかりやすく」とは言いませんが、どんなに偉大な思想でも読まれなければ(読めなければ)意味がないという思いを優先して、私の理解・解釈による(私自身がわかるための私自身の言葉として)私訳=試訳にトライしてみます。
 私訳といっても、そのバックボーンにはアリ研での講義によるアリストテレス理解があることはいうまでもありません。ちょっと乱暴ではありますが、これも現代のネット社会だからこそできることです。どこまでできるか、いつまでにできるかは、また、別問題ですが。
 なお基本テクストとして、高田三郎訳の『ニコマコス倫理学』(岩波文庫版)をメインに参照させていただいていることを記しておきます。
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 第1巻
 第1章
 どんな技術や芸術、あるいは学問研究も、そしてどんな実践活動や日々の選択も、そのすべては何らかの「善」を欲し、求めていると考えることができる。善こそは人間に固有の欲求であるとしたエウドクソスは、その重要な一面を見事に解明したといえるだろう。
 人のさまざまなおこないの目的とされる善にはさまざまなものがあるが、大きくいって二つに分けることができる。つまり、活動それ自体が目的である場合と、活動によってもたらされる何らかの成果が目的である場合である。目的がそのおこない自体にない後者の場合にあっては、活動すること自身よりも、それによって得ることのできる成果のほうがよりよきもの、すなわち善であるとされるのが普通だろう。
 しかし、何かの実践活動とか、技芸とか学問にもいろいろあって、その目的もさまざまである。たとえば医療においては健康を、船大工はよき船づくりを、戦いの指揮官は勝利を、家計は貯蓄を、それぞれその目的とするものである。そしてまた、もし、これらの営みのいずれかが、ある種のより大きな能力の内に含まれるとしたら、それらを包含し統率する営みの目的のほうが、より多く善にとって望ましいものといえる。つまり、たとえば家づくりにおいて大工職人は棟梁のめざすもののために、あるいは、馬具の製作は兵士が巧みに騎馬できるようにするために、そしてまた、巧みな騎馬は兵士が従属する軍隊の指揮官の目的遂行に奉仕するためだからである。それは本来、その行為自体が目的となる芸術活動、もしくはいまいった医療などの研究やその他の学問(エピステーメー)のように、何らかの成果がその善としての目的である場合であっても同様である。


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“超訳『ニコマコス倫理学』 第1巻 第1章” への1件のコメント

  1. izのアバター
    iz

    資料として、小川雄造さんの英文からの試訳をこの欄に掲載して記録しておく。
    David Ross による英訳本『ニコマコス倫理学』(Oxford Classics) に基づく試訳/私訳
    第1巻
    第1章 
     すべての人間の行為/活動は「善」を目指す(目論む)、或る「善」は他(の善)に従属する。
     あらゆる技術/技能や研究も(そして同様にあらゆる行動や実行も)或る「善」を目指すと考えられる。
     そしてこのような道理からして、「善」は総ての事柄がそれを目指すものと、当然にも明言されている。
     しかしながら、目的の中では ある種の違い/相違が認められる。 あるものは活動であり、他のものはその活動とは別の それが生み出す成果/産物である。
     行為/行動とは別にして目的があるところでは、その活動以上にその成果をより良きものとするのが本質(自然)である。
     ところで、多くの行動、技術、学問が存在するので、それらの目的もまた多くある。医療(技術)の目指すものは健康であり、造船の目指すものは船舶であり、作戦/戦略の目指すところは勝利であり、経済の目指すところは富である。
     しかしながら そのような技術/技能が単一の領域に支配されるとき、恰も、馬勒製作や馬の装備に関する他の技術は乗馬の技術/技能に支配され、それとあらゆる軍事行動は戦略に支配される、同様にして、他の技術はその上に他のものに支配される。
     これらすべてにおいて、熟達者の技術/技能の目的がすべての従属する目的に対して優遇されるべきである。というのは、後者が実行されるのは 前者の為だからである。
     行動自体が行為の目的なのか、行動とは別の何かであるかは、今ちょうど述べた学問の場合では何ら相違はない。

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