先日、ある人(アーティストの配島庸二さん)から、佐藤春夫が書いたバリ島旅行記の存在を教えられた。
それは「バリ島の旅」という題名の随筆で、私が読ませてもらったのは、筑摩書房の現代文學全集30『佐藤春夫集』に収録されたものである。昭和20年の正月の数日をバリ島に遊んだ佐藤春夫は、自身で「たわいもない」といいながら、そのときの印象を短い旅行記として自由闊達に、とても愉快に綴っている。
公表されたのは昭和26年(私の生まれた年!)のようだが、「はしがき」に「餘人にはたわいも無いものであろうが、當年の旅人にとっては焚き捨て難いのをここに録して貰うことにする」とある。
配島さんからお借りしたこの本は、配島さん自身、最近どなたかから贈られたものであるという。配島さんは、本サイト「カフェ・ヌース」でも紹介されているように、書物を焼いて(焚いて)炭にする「炭書」を作っておられる。もし、この本が、「炭書」制作のために材となる可能性をもって、配島さんに贈与されたものであるとすると、逆説的でありながら、バリ好きの私にとってはなんだかとても不思議なめぐりあわせのような気もしてくる。
贈与の循環…。
逆説的といったが、配島さんの炭書が「焚き捨てる」ことを本意としたものではなく、むしろ焚いて(焼いて)保存し、機能を変換して別の「なにか」に再生させることであるならば、逆説どころか、もしかすると芸術行為というものの「本説」、つまり原因と結果、過去と未来が逆転するような一種のマジックを見る思いがする、といったらアーティスト本人からは深読みと笑われるだろうか。
…と、ここまで書いて漠然と「贈与」のことを考えていたら、事務所のドアをノックする音が聞こえた。いつかは読まねばと思い「アマゾン」に発注していたマルセル・モースの『贈与論[新装版]』(勁草書房)が、配達されてきたのだ!(本当ですよ)。
バリ島は、私にとってはつまり、ある意味で「贈与」のトポスであるといってよい島なのである。
いまくわしくは書かないが、バリからはじつにいろいろなものを贈られた。それはいったいなんなのか。それを少しずつでも言葉にしようという試みが、このバリコラージュであるともいえるわけで。
また、本来的な意味での芸術活動にしても贈与という面から捉えてみる必要があるのではなかろうか、とも思う。前々回にも書いたひとつの言い方をすると「市場経済を超えた領域」に生起するものとしての芸術=贈与。この場合、それは自然からの贈与が大本であるといってよいかもしれない。自然からの贈与を人々と分かち合うものとしての、また自然にたいするその返礼としての芸術、そして芸能。
だから「深読み」「こじつけ」はある程度承知のうえである。配島さんとそのアートに出会ったときから、「贈与」という概念が自分のなかに芽生えてしまったのだからしょうがない。概念によって導かれた”ひとつの”読み(思考)として、まあ、許してやってください。
★
さて、話は端から横道にはいってしまったが、佐藤春夫のバリ島旅行記は、もちろんこの贈与ということに関して書かれたものではないし、バリ島の自然や文化をまとまった論として語ろうとする意図をもったものでもない。むしろ、戦時下での旅の経緯や、日本軍の監督当局や優越感に由来する好色(?)な「白色人種」への皮肉、ジャワ島とバリ島の景観の違いや、数日間の滞在のあいだに出会ったバリの風物や芸能などを、筆の赴くままに思い出しながら辿った素朴な印象記にすぎないものだ。
バリ好きの人は、彼の行ったところ見たものを、自分の経験と照らしながら、昔と今のバリに楽しく思いを馳せることができる。
その程度のものである。しかし、その「程度」がなかなかにむずかしい。エッセイという形式は程度、つまり対象との距離のとりかたの問題だとも思うのだが、それがなんともいえずいいのだ。「ky(ケーワイ)」などど最近はよくいわれるが、空気が読めないのとは反対に、空気”しか”語っていないともいえるわけで、私などは、それがかえって新鮮でおもしろいな〜っと、妙な感心の仕方をしてしまう。エッセイとは、すべからく「旅の記録(トラヴェローグ)」なのではなかろうか。
(空気といえば、2,3年前に友人たちと和歌山を旅し、新宮市の熊野速玉大社を訪れたときのことをふいに思い出した。そういえば、その境内の一角に「佐藤春夫記念館」があることを偶然にみつけ、短時間だが観覧したことがあることを。バリの寺院(プラ)と日本の古い神社の内や周辺の空気感=雰囲気=気配には、とても近しいものがあるといつも感じていたし、いまも書いているうちにその感覚が甦ったからかもしれない)
この空気は要約などではなかなか伝えられるものではなく、それを読むことのなかにしか感じとれないものだ。
しかし、せっかくだから、文体およびバリの空気=自然環境を伝えると同時に現代にも通じる主張としても大いに共感できる一文だけでも、下に引用し記憶に留めておきたい。
「もし世界平和萬國共營の方法を具軆的に考えへたいと思ふ人があるなら、バリ島デンパッサル郊外のボンカス村バンヤンの里に行って、この桑科の喬木、學名Ficus bengalensis の成長繁茂の實状をつぶさに一見してこの木の啓示するところを學ぶに限る」
引用中に出てくるバンヤンとは、バニヤンとも発音されるガジュマル(榕樹)のことである。この木は、ご存知の方も多いと思うが、とにかく巨大に生育し、佐藤の言い方を借りると1本1本の幹のようなものはそれぞれ他の枝や梢や根を兼ねている全体が部分であり、部分が全体であるごとき、単体であるのと同時に宿り木の集合体であるような、とにかくスゴイ木である。現代風にいえば、フラクタルであり、ツリーでありながら同時にリゾーム状の木(樹と書きたくなる)といったところか。
私もそうだったが、佐藤春夫もバリでこの木を前にして、その存在感に圧倒されたようである。
ところで、上の写真は、あるアメリカ人カメラマンによって撮影された1940年前後のバリ島の風景である。カメラマンの名前はホレス・ブリストルといい、配島さんの親類にあたる報道写真家。やはり配島さんから以前に見せていただいた彼のすばらしい写真集『bali』のなかから、デジカメで複写したものを一枚、もうひとつの縁の徴として掲載させていただいた。遠方に聳えるのは、バリの聖山グヌン・アグンである。この山はバリの人々によって「世界の臍」とも呼ばれる。
佐藤春夫も同じような風景を目にしたはずである。
他の場所と同様にバリの風景も変化する。開発による景観の破壊が、バリにはまだそれほど及んではいないとしても、私たちには半世紀以上も前のこの風景とまったく同じものを見ることはできないし、また、それを望んでも無益なことだろう。
しかし、このモノクロの画像(そしてこの写真集)は、レントゲン写真のように、からだつきは変わっても、いまだ変わらぬバリの風景(やそこで暮らす人々)の”骨格”をみごとに写し取ってくれているように思う。
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