以下は、2004年のバリの旅の記憶。中断されている『ウブドの光る雨』を、再び書き継いでみたいと思います。これは、[ウブドの光る雨1ー1]にあたります。
<……岸辺に打ち上げられた漂流者のように、私は眠りの海から吐き出されていた。>
朝食には、まだ早い。私はピタ・マハの敷地内を少し見て歩いたあと、部屋のテラスに戻り、日本から持ってきていたガイドブックや空港で手に入れたリーフレットの類いを外のテーブルに広げ、写真や地図などを見るともなしに見ていた。
ランドスケープ・アーキテクチャーという、なにやらいかめしい肩書きを持つ友人のひとりが、「地図で見るバリ島は、なんとも面白い、いい形をしているよね」と言っていたことがある。彼は以前、王立庭園の造園工事ために、デザイナーとしてブルネイに一年間暮らしていたことがあり、自然と人の技術との接点を探ることに深い関心を持っていて、自然や都市環境、ヨーロッパや日本の庭園、いわゆるランドアートのことなど、よくふたりで語り合ったものだ。
この前の爆弾テロのために、いっしょに計画していたバリ旅行が直前で取り止めになり、今回も病気のためにこの地に来ることがかなわなかったが、バリの景観をじっさいに見たら、彼なら何と言うだろう、などと考えていた(この旅の2年後、彼はこの病から回復できず亡くなった)。
ここバリ島は、インドネシアの州のひとつ。大小合わせて1万数千〜2万あるといわれるこの国の島々のなかのひとつで、面積はほぼ愛媛県くらい。西にジャワ島、東にロンボク島が近接している。ロンボク島とのあいだには、そこから動物の生態分布ががらりと変わる境界といわれる、かの有名なウォーレス線がひかれている。ウォーレスとは、ダーウィンと「進化論」を競い合ったあの博物学者・探検家アルフレッド・ウォーレスのことである。
ガイドブックによると、この小さな島に310万人が暮らしているとある。1平方キロあたり、550人というから、かなり人口密度は高い。イスラム国インドネシアのなかで、唯一のヒンドゥー教の島であるが、インドから伝わったこの宗教に、バリ特有の自然信仰がミックスされて形成されたバリ・ヒンドゥーの教徒が、住民の95パーセントを占める。人口密度は高いけど、いたるところに寺院があり、面積に占めるお寺の数の比は世界一高いといわれる。
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とこうするうちに、早く起きて敷地内を”探索”していたらしい「玉さん」(今回の旅の仲間をこのような符号で呼ぶことにする)がヴィデオカメラを望遠鏡のように目の前に構えたまま、土塀の狭い入り口から入ってきた。もうひとり同部屋の「秋さん」もちょうど出てきたところで、隣の一棟の「北さん」「竹さん」(この2人は女性)も現れて、小さな前庭になっているテラスに5人の顔がそろった。
みなあまり寝ていないはずだが、さわやかな朝にふさわしい、朝のようにさわやかな表情をしている。私も椅子から立ち上がってカメラを構え、私たちを撮影している玉さんと向き合った。一枚、カシャッ。
ロビー脇のレストラン。さほど広くはなく、テーブル数も多くはないが、自然光と風が窓から入り、開放的。つい、窓といったが、2階にあるこのレストランは、外壁が腰の高さまでしかなく、屋根とのあいだには数本の柱があるだけで、媒介なしに外の自然とつながっている。バリに限らず、熱帯地方には「窓」といった概念はほとんど意味をなさないことに、いまさらながらに気がつく。
そのことは別にしても、バリの”外と内”の境目の作り方は、とても興味深い。開放的で閉鎖的、オープンかつクローズとでもいえばよいか。バリ独特の、山を垂直に刃物でたち割ったような寺院の門(チャンディ・ブンタール)の間口は、たとえば日本や他国の寺社などと比べても極端に狭く、家屋を囲う塀や部屋の入り口は、せいぜい人が一人やっと通れるかどうかぐらいしかない。しかし、一般家屋の塀や壁、敷地の囲いは低く、そんなものがない場合もあって、なかへ入ろうと思えば人はどこからでも入ることができるのだ。
バリの境界は、人ではない、なにか別のもののためにあるような気がする。
フルーツジュースにトーストとベーコンエッグ、果物とコーヒーを主とした”普通の”朝食をとったあと、「さっき見てきたけど、ここのプールはすばらしい!」という玉さんの一言で、私たちは部屋に戻りがてら、敷地のはずれに隠れるように設置されたプールへ行ってみることにした。
たしかに、すばらしい。大きなプールではないが、いかにも冷たそうな水が満々とたたえられていて、プールサイドを数脚の寝椅子と日傘、そして赤いハイビスカス、白いプルメリアなどの木々がふちどっている。私はなぜか木に咲く花が好きだが、花びらの中心がほんのりと黄に染まったプルメリアも例外ではない。見上げた瞬間、その白い花のひとつが咢ごと、ポタリと水面に落ちた。
そして、なによりもすばらしいのが、”向こう側”にひらけている景観である。視野の両側面が木々で額縁のように切られた見晴しの上半分が空の青、下半分が対岸の斜面に作られた田んぼの緑。人影はまったく見えず、ヤシの木や、おそらくバナナやドリアンと思われる木が間隔をおいて空に貫入している景色は、自然と人工(手入れ)の調和の見事な一例だ。こちらとあちらとでは、近くて遠い此岸と彼岸の感じもする。
この一帯は、深い渓谷になっており、ピタ・マハの正式名「ピタ・マハ・チャンプアン・リゾート」のチャンプアンとは、この渓谷一帯を指す名称である。
ピタ・マハは谷戸の一方の傾斜面に立地しているので、ホテルの川側にあるプールの向こうにはスポッと抜けた空間がひらけ、遠近感が一瞬おかしくなる、いわば手を伸ばしても触れない風景画のような眺望がひらける仕組みである。プールの槽の端が床と同じ高さになっていて、プールからあふれる水は、断崖の向こうに落ち込んでいるように見える。だから谷側のプールの淵に人が立つと、水の上に立っているような、あるいは空が水面に映りこんでいるので、まるで空中に浮かんでいるように見える。
だからこのプールの魅力は、透明な水と空、その水の中で泳ぐことが、鳥のように空を飛ぶ感覚と混ざり合うことにきっとあるのだろう。
この”様式”は、比較的新しいバリ風ホテルで流行っているようだ。たとえば、よしもとばななが『マリカのソファー/バリ夢日記』でかつて絶賛した、同じウブドにある最高級リゾートホテル「アマンダリ」のプールがそうで、アマンダリがそのはしりになったのだろう。
すぐにでも、水着に着替えて泳ぎたい衝動にかられたが、それは「あとの楽しみ」にして、今日はまず周辺を歩いてみようという計画どおり、私たち5人はピタ・マハの外へ、ウブドの通りへ、ジャランジャラン(インドネシア語で「散歩」「ブラブラ歩き」のこと)へとくり出した。(つづく)
*上はバリ島の地図。昔ある雑誌(旺文社発行の日本版「OMNI[オムニ])でバリ島特集を企画・編集したときに、少し年上の友人であり、敬愛していたイラストレーターの渡辺冨士雄さんに描いてもらったもの。20年以上前のものであるが、渡辺さんは、その数年後に故人となられた。渡辺さんの多才な作品のなかで、よく知られているのは『ツルはなぜ一本足で眠るのか―適応の動物誌』(草思社)という本の挿画だが、デザイナー杉浦康平さんとのコラボレーションで、ブータンの切手に、オファリング(お供え)の美しい絵を描いたこともある。
バリ島特集の際、ライアル・ワトソンに「世界の臍」という一文を寄稿してもらったが、そのあと、やはり私の企画で、「ライフライン」と題したワトソン博士の日本初の書き下ろし連載をOMNI誌に掲載したときにも、渡辺さんに挿画をお願いした。ワトソンさんも、彼の画をたいへんに気にいっていたと、翻訳をお願いした内田美恵さんから伝え聞いたことがある。この「ライフライン」は連載完了時に『アースワークス―大地のことば』というタイトルに代え旺文社から発刊された。ほどなく絶版になったが、現在は、筑摩文庫で読むことができる(渡辺さんの、このときの線画によるイラストレーションも使用されている)。
上の手描きの地図は、渡辺さんに返却されたはずで、いま手許にはのこっていない。よって、OMNI誌から複写(スキャニング)し、ひとつの記録・思い出として掲載させていただいた。渡辺さん、ありがとう。あのころはほんとに楽しかった…。
渡辺さん、そしてそのずっと後になるが、本文で触れた友人・堤野仁史さんとよくバリの話をした。ふたりともバリは未経験だったから、私の一方的な報告に終始したけど、ひとりで興奮しがちな私の話に熱心に耳を傾けてくれた。「今度いっしょに連れていってよ」とよくいわれたけど、果たせぬまま、ふたりとも逝ってしまった。拙いこの一文にこめた思いを、渡辺さんと堤野さんに贈りたい。
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