今度の小さな東北の旅でどんな「もの」と出会うことになるのだろう、と前回のブログの末尾に書いた。そしたら、ほんとにまったく思いもよらない意外な「もの」と出会うことになった。正確に言うと「再会」することになったのである。極私的、個人的なことなので、おもしろいかどうか分からないし、ちょっと長くなるけど、ここに記しておこうと思う。
それは亡き父とのひとつの出会い、より正確には形のない記憶との、そして父の遺した「もの」との出会いだったということができる。忘却の彼方から「それ」が不意に私の前に現れ出たのだ。
しかしそれには、私の今回の旅程と、ひとりの友人との「つきあい」について述べておかねばならない。
10日、旅の目的である福島での取材(インタビュー)の仕事を終えた後、福島駅で同行した2人のスタッフと別れ、私は仙台まで足をのばして昔の親しかった友人を訪ねた(写真は福島駅前で最初に撮ったもの。枝に鳥の巣が見える。しかしここでは「仕事」の話はしない。前回のブログで触れた「同時にデジカメを2台買った女子」が取材スタッフの一人だった、しかもちゃんと2台とも持ってきていた(エライ!)ことを述べるにとどめる)。
友人とは高校時代からのつきあいで、社会に出てからも仕事上の関係もあって一時期よく顔を合わせていたが、何を思ってかある日突然、彼は務めていた大企業の管理職をやめ、ひとりで特別なワックスをつかったクルマ磨きの技術と職を身につけた、と思っていたら、それも2、3年でやめて、これまた突然、当時暮らしていた横浜から仙台に居を移し、珈琲豆を自家焙煎して販売する店をはじめた。
それが9年ほど前のことである。
私同様に東京出身のその友人は大学を出てから数年はジャズの専門誌(『スイング・ジャーナル』という老舗の権威ある雑誌だったが今はもうない)の編集を生業とし、そこをやめて他の職業についてからも「趣味」の一環で同誌にレコード評などを書いていた。私も「大学は出たけれど」(小津!)職のなかった若い頃(そもそも就活などという言葉さえなかった時代だし、ましてや仏文出の私は自分がどこかの会社に就職するなど考えてもいなかった。けど、生活のためお金は必要だったので)、彼の口利きでそのジャズ専門誌の編集を手伝っていたことがあるが(編集っていうかジャケ写の整理や原稿とりなどの「使いっぱしり」だけど、一年くらい)、要するに彼とは高校のころからモダン・ジャズを中心としたレコードをよくいっしょに聴いたり、コンサートに行ったりした音楽友達だったといっていい。
思い返せば、彼の住む八丁堀と私のいた京浜蒲田の家を相互に行き来して、二人でいっしょにそれぞれのもっているLPレコードをじつによく聴いたものだ。互いの「自分の部屋」に二人でこもり、照明をおとし部屋を暗くし(もちろん「音」に集中するため)、コーヒーを啜りながら。
当時リアルタイムで活躍していたミュージシャンでいうと、よく聴いた記憶があるのはマイルス・デイビス、ビル・エヴァンス、セロニアス・モンク、ウェス・モンゴメリー、ジミー・スミス、チック・コリア、ウェザー・リポート、ハービー・ハンコック、、、ジャズだけでなく、ストーンズやディランは別格として、ジミヘンやクリーム、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ジェファーソン・エアプレーン、ジャニス・ジョプリン、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、マザーズ・オブ・インベンション、ニール・ヤング、、、などのロック系もよく聴いた。レコードの貸し借りもよくやっていた。
学生時代は貧乏だったから(暇だけは飽きるほどあったが)レコードを買うにも一月にLP盤一枚買うのがやっとで、二人だったら二枚の新しいレコードを聴けるっていう経済性の問題もあったが、この時期に、同じ音(音楽)を共に聴くことで感動が倍になるということを身をもって知ったと思う(っていうか、感動というものは音楽に限らず同じ物や事を誰かと共有することの体験として生じるということを)。一枚のレコードを何度も何度も「すり切れるほど」(この感覚はアナログな「レコード盤」を知らない人には分からないだろう)聴いた。
ときに意見が合わずに喧嘩して口をきかなくなることもあったが、一人で何か聴いているときでも、「あいつならどう聴くだろうか? 聴かせてみたい」と相手の耳になって聴く(想像する)ことで、対象を相対化してみるという批評意識(客観性)が培われた面もあるだろう。そうでなくとも、自分の好きな音楽は自分の好きな人にも聴いてほしいという思いは誰にでもあるはずだ。後年、その相手は同性から異性へと移っていくものだが。そしてさらに、音楽から異性自体へと。
当時は直径30cmのレコードを収めるジャケットのデザインも実験精神に富んだ素晴らしいものが多く、レコード店に行って(たとえば銀座ヤマハのレコード・ショップ)入荷したばかりの輸入盤のジャケットのアートワークに惹かれて予定していたものとは別のレコードを買ってしまうなどということもあった。いわゆる「ジャケ買い」というやつだ。しかし、なんせお金がないから、どの一枚を選ぶかは、その場で身悶えするほど悩みに悩んだすえの決断である。でも、結果として「ジャッケットがいいのは中身もいい」場合が多かったのは救いであったし、なんだかそんな視覚と聴覚の相関性が不思議で面白いなぁと思ったものだった(悩んだ末に必死の思いで買ったものはよくなけりゃ困るわけで、無理やり「いいんだ!」と思い込もうとした面もあるだろうが、しかし、その頃いいと感じたものは今でもいいのだから、やはりほんとによかったんだと思う)。今から思うと、このときの「経験」が現在のグラフィカルなデザインの仕事をするようになった「きっかけ」として遠くから作用している気がする(このころにデザイン・センスの傾向はかなりな程度方向づけられたのだと思う)。
福島から仙台に着いたときはまだ少し時間があったので、前から見たいと思っていた「せんだいメディアテーク」まで駅から20分ほど歩いた。ここは図書館やギャラリーなどがある、メディア/情報をあつかう新しいタイプの公共施設ということであるが、私はどんな旅でも旅したときはその地でしか見れない特徴的な建築物を見る、そしてその地の湯(できれば温泉)に浸かるという願望を習慣化しているので、ささやかながらその一つはこれで満たすことができたわけだ(急ぎ足ゆえ街中でみかけた銭湯はあきらめたが)。
これは伊東豊雄の建築で、彼の建物を実見するのは震災の半年ほど前に行った諏訪湖博物館以来だが、メディアテークはガラス張りの箱のような外観と「チューブ」と呼ばれるトラス構造の「柱」がやはりインパクトがあり、その安定した機能的デザインに少しねじれの要素が不意にまぎれこんでいるようで、わずかながらランダムにゆらいで定型的未来都市の予定調和と拮抗しようとしているところが、この仙台という町にも似合っているように思えた(ちょうど11か月前の地震発生時の建物内の映像がYouTubeで流れよく見られたようだが、見た目の透明性に配慮した美しい外観だけでなく、そのしっかりと考えられた構造における耐震性を実証する結果になった。館内にはいまでも「3がつ11にちをわすれないためにセンター」というのが仮設されている。上の写真は「チューブ」内を上昇していくエレベータから「天井」を見上げたところ)。
友人の店は仙台駅から地下鉄に乗って終点の泉中央というところまで行き、そこからさらにバスにのり10分ほど行ったところにあるのだが、住まいは別で、その店から目と鼻の先、歩いて2分ばかりの距離にある。辺りは瀟洒な作りの住宅が並ぶ(マンションなどの高い建物がほとんど見えない)、まるでスピルバーグが日本人だったら舞台にしそうな郊外のニュータウン(ベッドタウン)という感じの(つまり映画『未知との遭遇』や『E.T.』風の、UFOでも飛来してきそうな感じの)町である。
じっさい、泉中央駅に降りると、ちょうど夕方の帰宅時間ということもあってか、会社員や学生など大勢の人で混み合い、バス停の前は長蛇の列ができるほどだった。
つづく(多分)。
東北の「小さな旅」極私的報告(1)
投稿者:
タグ:
コメント
“東北の「小さな旅」極私的報告(1)” への2件のフィードバック
石井さま
東北での「私的な体験/経験」には、何となく気が惹かれます。
それにしても、あの『スイングジャーナル』の編集なんて 本当に興味深い経歴
をお持ちなんですね、、、、
そして、アナログLPレコードの蒐集なんて 本当に懐かしい想い出深いあの時代
が愛おしい限りです。
色々と便利にはなったけど 総てが薄っぺらくなったデジタル時代には本当に心
からは馴染めない我々の世代ですね、、、、
どちらにしても、今後の話の続き/展開が待ち望まれます。
庵頓亭主人
ありがとうございます。
わずかでも、こういう文に関心を持っていただける「読者」がいるなら、デジタル時代特有の速く、短くというモードから外れるかもしれませんが、なんとかつづけてみるつもりです。
「物語」には、出来不出来は別にどうしてもある程度の長さと連続的な流れが必要ですね。
書き出してみると、はじめの考えと関係ない別の方にどんどん話のラインが延びていってしまって、収拾がつかなくなってしまいそうになる。それを、いかにひとつの「流れ」として関連の糸を結びながら、特定のかたちにしていくか。
こんな拙い文章でも、「書く」という行為は、そのためにどのように頭と手をはたらかせるかという「知性」のトレーニングなのだな〜っ、と訓練嫌いの私(>|<;)はつくづく思います。