この週末、正月の連休のうちに何か1本くらい映画を観たいと思い、スマホのアプリで情報を検索して、家から比較的近い越谷レイクタウン内にあるシネコンで上映中のスピルバーグの新作『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』を、家人と二人で見に出かけることにした。スピルバーグの久しぶりの監督作品だし、年のはじめから二人で見るのにあまりシリアスで「重たい」ものも何だし、シネコンはスクリーンが小さいけど大劇場のある都心に出るのもおっくうだし……、ということで。
で、映画を観た感想として、とてもおもしろく、スピルバーグならではの息もつかせぬ活劇をたのしめたのだが、これまでどんな映像にもなかったような「奇妙な感触」があり、ちょっと不思議な後味というか、本でいえば読後感がのこった。そして、おもしろくはあったが、見終わったあとに、無臭の味気なさというか、さびしさ・むなしさみたいな印象が残ったのも事実である。
そのことを少し考えてみたい。
そもそもスピルバーグに関しては書きたいことはいっぱいあるし、でも逆にいまさら改めて何をかいわん? と、そのあいだで思いも揺れる(?)が、ともかくはまず一言だけ簡単にいうとしたら、やはり彼は永遠の「映画青年」だな〜、ということになるだろうか。タランティーノにもこの称号を与えたいところだけど、スピルバーグが「青年」というなら、「タラちゃん」は映画「少年」というべきか(それだけ悪ガキで、アブナイといってよいかも)。この『タンタンの冒険』でも、スピルバーグの青年ぶりはいかんなく発揮されている。
しかし、その青年としての風貌が些かこれまでと違うのだ。
子どもの頃からの映画マニア(シネフィル)が大人になり、そのまま映画の作り手になって「自分で自分の見たい映画」を作りつづけているという意味では、スピルバーグとタランティ−ノは共通部分が多いし、それこそが私も二人の映画の好きなところで、新作が来るとなると、こちらも映画少年(あるいは青年)だったころを思い出し、いまだにわくわくしてしまう数少ない映画作家(監督、脚本家、制作者)である。新作の情報を知るたびに早く見たくて落ち着かない気分になるのは、アメリカの映画作家ではこの二人の他には、クリント・イーストウッドくらいなものだろう。その意味では、イーストウッドがいちばんの「大人」だが。
『タンタンの冒険』はご存知のように全編にCGが駆使されているらしいことがわかっていたので、下手すると「ダメ(駄作)」かなという不安もあったが(もともとCGを無自覚に多用する映画は好きでないし、私はスピルバーグの全部が好きというわけでもない)、ある意味でその心配は不用だった(「普通」ではありえないシーンでも、ちゃんと引力などの自然法則にしたがっているから、CGで作られているとしても実写同様の説得性があり、同じ嘘でも嘘を嘘として自覚してたのしめる)。CGだろうが実写だろうがスピルバーグは「つくりもの」がお得意だったわけで、むしろ新しいデジタル映像技術のおかげで、彼としてはスピード感全開ハラハラドキドキのストーリー展開を思うように「演出」できる道具を手にすることになったといえるだろう。
いうまでもなく、「奇妙な感触」はこの新しい技術に由来する(この手法は正確には「フルデジタル3Dパフォーマンス・キャプチャー」と呼ぶらしい)。この不思議な手触りのこれまでにない映像体験は、スピルバーグが新しい「道具」をつかって縦横に遊んだことでつくられたものである。新しい技術といっても、キャメロンのSF映画『アバター』のほうがその先駆となる作品であり、だから、たしかに『アバター』に近い風合はある。しかし、あのように架空の世界が舞台ではなく、地上の世界が舞台だし、片方が異星の種族(エイリアン)が主演であるのに比べて『タンタン』の主役は「普通の」人間である。
そのため、かえってその奇妙な感じは『タンタンの冒険』のほうに強まる。つまり、異星人はもともと「奇妙」なのはあたりまえだけど、人間が人間でありつつも人間でないような存在として動き回ることの変な感じ——。それは、描かれたCGアニメのキャラが生身の人間を「演じる」(模倣する)のではなく、いうなれば生身の人間がCGアニメの人間を演じる奇妙さなのである。人間が人形のように演じるいわゆる「人形ぶり」はこれまでにもあるとしても、ここまで全編に徹底して「人間がCGアニメの登場人物を演じる」映画ははじめてだろう。「彼ら」は映画にはじめて人間とCGアニメの造形物との中間として登場した、新種の生き物みたいなものである。
じつをいうと、この映画が終ったあと、一抹の「さびしさ」と「むなしさ」があったのだが、それはけっして嫌なものではなかった。このところゲームから少し離れているが、「むなしさ」のほうはRPGやアクション・ゲームに熱中して何時間もかけてクリアしたあとの開放感にともなう空虚感に似ているといったらよいだろうか。スピルバーグにはもともとゲーム性があって、『タンタンの冒険』に限らないわけだが、しかし、これまでの彼のゲーム感覚とはやっぱり何か違うのだ。うまく言えないが、アナログな遊戯性が、デジタル・ゲームに移行した感じ——。
では「さびしさ」のほうの原因は何だろう(と、しばし考える)……。
端的に言ってしまえば、ハリソン・フォードがスピルバーグの映画で活躍する時代は終ったということになろうか。
スピルバーグのここ何年かの作でいえば、あまり評判がよいとはいえないSFもの『マイノリティ・リポート』や『宇宙戦争』(ともに主演はトム・クルーズ)は私は結構好きで評価していたのだけど、インディアナ・ジョーンズの4作目『クリスタル・スカルの王国』は、ちょっとガッカリで、とくにハリソン・フォードがもうだめだと思った。歳なら歳で、魅力の出しようはあるはずなのに(たとえば、3作目『最後の聖戦』のインディアナの父役=ショーン・コネリーのように)、なんというか、その「存在感」よりも無理に人間的にがんばって「演技」している感じがどうも気になってしまって、映画のなかに入っていけない。もともとハリソン・フォードが優れた役者だなどと思ってもいないが、『スター・ウォーズ』のハン・ソロやこのインディアナ・ジョーンズは彼でなければならない「はまり役」で、そのキャラクターを愛していただけに、やはり「永遠に」その役を演じつつけることは無理なのだと自ら告白してしまった観があった。『タンタン』は「人間」インディアナ・ジョーンズへの別れの歌だったといえるんじゃなかろうか。
スピルバーグの作品カテゴリーとしてはインディアナ・ジョーンズ・シリーズのような「冒険活劇」映画に連なるだろうこの『タンタンの冒険』は、もしかすると、その「さびしさ」を超えようとする試みであったのかもしれないとも思うのだ。
映画というものがたえず新しい技術の導入とそれを使いこなす試みの歴史であるように、スピルバーグがその映画の技術革新に自らも名を連ねたいという意欲(夢)を、映画青年として実現したかったという面もあるのだろう。はっきり言って「人間」を描くことに関しては、タラちゃんやイーストウッドにはとても太刀打ちできないと思う(彼のもうひとつの路線である「人間感動ドラマ」は見ていて気恥ずかしくなるところがあって、あまり好きでない)。
たしかに、この技術をつかえばタンタンは永遠に青年のままで、いつまでも老いることもないだろう。何作だって続編がつくれるだろうし、スピルバーグがこの世を去った後も、誰かが彼にかわってタンタンをスクリーンに生かしつづけることができる(しかし、そこに、それはそれで孤独な哀しみがつきまとう。『A.I.』にも通じる哀しみである。スピルバーグも自覚しているだろうし、その「孤独」は彼のテーマでもあろう)。
社会から子どもと大人の中間的存在である「青年」が消滅した(内田樹氏の指摘。卓見である。くわしくは彼の本を読むべし)だけに、映画青年スピルバーグは、この世での「青年」に別れを告げ、もうひとつの世界=映画のなかだけでも「青年」を「生き生きと描くこと」で青年性を永遠化したかったのかもしれない。それは、むかし青年だったことのある人にとっては青年が永遠に失われてしまったことの諦めの証しでもある。しかし、その諦めは、それほど嫌なものではない。この場合の諦めとは明らめ、明らかにすることでもあるだろう。
それは、現実がゲーム化してしまった現在の社会のなかで、自分と世界を生きのびさせる術を探るひとつの方法なのかもしれない。
『タンタンの冒険』をめぐるスピルバーグの冒険
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コメント
“『タンタンの冒険』をめぐるスピルバーグの冒険” への2件のフィードバック
石井様
久しぶりの映画評が「...らしからぬ」(?) スピルバーグ最新作で3Dの
『タンタンの冒険』で聊か戸惑いました????
でも、仰っていることは本当に良くわかります。
処でこの作品は、昨年11月の終わりごろベルギーのTVニュースをネットで
看ていたときに 彼の地でスピルバーグも封切の舞台あいさつに参加したと報じ
られており 多少は興味を持っていましたが、、、、
<ご承知のように、タンタンの故郷はベルギーです、、、、>
<そういえば、『シンドラーのリスト』を観たのは 確かブリュッセルでの
ことでした、、、、>
たぶん「奇妙な感触」は、エルジュの原画の味が極めてアナログ的なほんわか
ノホホンとしているのを そぐわないCGで「超リアル」(?)に拵えている処に
起因しているのでは 推測いたしますが、、、、、
<実際に映画も観てもいないのに、こんなことを邪推するのも気が退けますが>
2012・1・15
庵頓亭主人
そうですね。エルジェの原画(まんが)に親しんでいる人にとっては、立体化された『タンタン(TINTIN)』は、そうでない人より一層の奇妙な感触、というか違和感をもたれるでしょうね。
この映画の登場人物たちは、生身の人間と二次元で描かれた絵(あるいはアニメ画)とのまさに中間的な存在を生きている感じなんです。かといって、ロボット(人形)ともエイリアン(E.T.)とも違う、やはりA.I.(Artificial Intelligent)に近い存在と言えそうです。
スピルバーグは「青年」から大人になったというより、再びネバーランドの「子ども」に帰ったような気がします。