『アリストテレス政治哲学の重層性』の重層的おもしろさ

9月6日(火)、いちおう『アリストテレス政治哲学の重層性』(荒木勝・著 創文社)を読み終わる。「いちおう」という留保は、この本はどれくらい理解できたら読んだといえるのか、その基準をうまく示しづらいからだ。あるいは、この本が何度読んでも、おそらく読み尽くしたと明言できる性質のものでもないからだ。しかしいま、それなりに「読んだ」、何かがわかった、読んでよかったという充足感に私は浸されている。
本来は「ちゃんと」レヴューして多くの方に推奨すべきだろうが、この本に関しては、「客観的に」ちょっとそれがやりにくい事情がある。で、日誌のかたちで覚書風にここに記しておきたい(それと前回の「ツリー・オブ・ライフと霧の中の1本の木」が自分でどうもうまく書けなかった思いが残っていて、早く「次」に移ってしまいたくもあり)。
著者はあのアリ研(アリストテレスと現代研究会)の座長である荒木勝先生。だから、「論壇」「学界」からはまったくの門外漢である私が「いちおう」であるとしても、「読んだ」「わかった」と言ったからといってもさほど不遜にはあたらないだろう。つまり、「だから」というのは、荒木先生本人を「よく」知っていて、アリストテレスや政治学の大学の教師である荒木先生は、アリ研において、私にとってのじっさいの先生にほかならないからだ。先生(師)と生徒(弟子)という間柄だからこそ「わかる」ということがある、というのを、先生のはじめてまとまった「本格的」著作を読んでよくわかった気がするのである。じっさいの大学という「教育」の場と、いまの私はまったくの無縁であるが、そんなことぬきに50を過ぎてこのような人間関係をもてたことは幸運としか言いようがない。
そもそもこの本は、些か(かなり)論述の入り組んだややこしい本ではあるが、そのややこしさのなかに、難解であるとは、もしくは、わかる(わかりやすい)とは、どういうことなのかという問いかけに対する答え自体を内包している(だからこそ「ややこしい」とも言える)。そのことがわかっただけでも、「いちおう」読めたといっていいだろう。この手の本はそのことがわからないと、よほどアカデミックにアリストテレス学に通じてでもいなければ、内容もそのおもしろさもさっぱりわからないだろう。
っていうか、何を言っているのかすんなりと理解できなくても、なにやらおもしろい(おもしろいことを言っている)というのがわかるなら、それでよいのだ。じっさい、ある(メタな)視点をもつことができると、難解なものでも、難解「なり」におもしろく読めるということがある。学問的な知識がなくとも、ひとつの「生き方」の問題として捉えることができれば(私にはそれしかできない)、難解でもおもしろいということがあるのだ。逆に、わかるけど、おもしろくないってことだってありうる。「わかる」のと「おもしろい」のどっちをとるかと言われたら、私は迷わず「おもしろい」ほうだ。
その意味で、私にはこの本は滅法おもしろく読むことができた。そして、読み終わったそばから、またいつか読みたいと欲する。今後、何度この本を開くかわからいのだけど、その都度「いちおう」なのだ、と思う。多分、読み尽くす、理解しつくすという「終わり」がこの本にはないからだ。
しかし、急いで付け加えるが、著者を知らなければ、この本のおもしろさはわからないと言いたいのではない。そんなことはない。荒木先生と面識があるかないかはまったく関係なく、「生き方」において哲学に関心があれば、そしてさらに、アリストテレスっていういまから2300年も前の古代ギリシアの哲学者に興味さえ持てれば、この本はお硬い哲学の論文集ではあるけど、学術的知識がなくとも、自分の読みはできるはずである(私はそう思う)。私はたまたま、アリストテレスより「先に」荒木先生を知ったにすぎない。
なんか難しそうだけど、もしかしておもしろいかも、読んでみる価値はあるかもっていう「直感」があればいい。書名にある「重層性」というのは、ある意味で多様な「読み」の可能性を含意しているわけで、じっさい、アリストテレスの用語の多様な理解の仕方を「現代」と照合しながら示唆してくれているのが本書の特長でもあり、これほど「一般に開かれた」本は専門書としては希有なのではないかと推察する。そう、本書はきわめて現代的である。
まちがいなくアリストテレスを「師」と仰いでいるだろう荒木先生だって、アリストテレスと直に面識があったわけではないのは断わるまでもない。しかし、学者としてアリストテレスを研究、理解するのと同時に、実生活を含めた自分の切実な生き方のうちにアリストテレスを「生きようとしている」のが、ある意味でけっして器用ではないその文章からひしひしと伝わってくる。アラキ(荒木)トテレスというアリ研内の愛称は、よくぞ付けたものである。
その意味では、アリストテレスってこんな人だったのか、彼の言葉をこんなふうに理解することができるのか!と、それまで何となくイメージしていたアリストテレス像が覆る、まさに「目からウロコ」な「読み」が本書全体を貫いている。もしくは、これまで日本においては、プラトンなどと比べても読まれることが少なく、まったく影の薄い存在だったアリストテレスって、こんな「すごい」人だったのか、と認識をあらためさせられると言ってもよいだろう。「わかった気になる」ことが「わかる」こととまったく異なる危険な知的態度であることを自己確認できる。本を読むことでわかった気になるのではなく、わかりたい、もっと学びたいという気持ちになることが大切である。
たまたまこの日、次に何を読もうかと本屋に寄り道したら、内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』が文庫本になって出ているのを見つけ(文春文庫)、以前から読みたい本だったので、さっそく購入して、ぱらぱらと読みはじめたのだった。「たまたま」というのは、言うまでもなく「意図せず」ということだが、偶然が意味を持った(と思える)ときに、私の場合何か「書くこと」の動機になることが多い。
内田氏のこの本の最初のほうは一種の師弟論になっていて、これが理屈抜きで(理屈を超えて)よくわかるのだ。師の言うことに対して批評はありえない、師の言葉の正誤、是非、良否を量ることが弟子の目的ではなく、それを「生きる」試みが弟子の役目であるとか、著作の「向こう」に師の存在があることの得難さ、著書に壁のように向き合うのではなく、著書を「介して」その向こうの師と向き合うこと、師に著書があってもあくまでも基本として重要なのは「口伝」であって、それによってしか伝わらないことがある、とか……。
このあたり、アラキトテレスの理解による「ヌース(直知)」の力と関係するようにも思えるが、それはまた別の論点となる。
内田氏はそのあたりの「消息」や間合いを、レヴィナスの「自称弟子」としてじつに巧く語ってくれる。じっさいにレヴィナスを読みたくなるし、荒木先生だけではなく、ついつい、大学のときの恩師だった巖谷先生(いまでも心の師として畏怖しつつ敬愛している。『森と芸術』展の本に関してはこの欄で少し触れた)のことなどを思い起こしてしまった。
9日から諏訪で12回目のアリ研の勉強会合宿がある。先の3月に京都で予定していた合宿は「東日本大震災」直後だったため中止にしたので、1年ぶりのオフ会である。この間に、震災があり、原発事故があり、荒木先生の待ちに待った著書『アリストテレス政治哲学の重層性』が上梓された。合宿でも当然この本のことが話題になるだろう。私としては、その前に、この本に対する私のスタンスとヘクシス(心的傾き)を簡単に述べておきたかったまでである。取りあえず。


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“『アリストテレス政治哲学の重層性』の重層的おもしろさ” への2件のフィードバック

  1. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    石井さま
    『アリストテレス政治学の重層性』を通読された由、私は未だ序章あたりで
     留まったままです、、、、
     
     <勿論、目次、はじめに、あとがき は ちゃんと眼を通していますが、、>
     この手の重厚な(重層的な)本は、学生時代以降遠ざかっていたので、なかなか
     読み進めそうにありませんが 石井様の仰るように 直知と好奇心を持って
     果敢にトライすべきだと思っております。
     今後は諏訪の合宿での講義も含めて しっかりと取り組んで行きたいと思って
     います、、、、、
     2011・9・8
     庵頓

  2. naohnaohのアバター
    naohnaoh

    はまりかけている瀬戸内源氏のブームが終わったら、秋の夜長にアラキトテレスの著作を読むつもりです。
    辺境にいると、東京では気づかなかった人の営みの原点のようなものが見えてきます。
    統治、選挙、合意形成、贈与、家族、地域、神社、仏教、お金などなど。
    日頃感じていることを思い起こしながら、「重層性」を読みます。