『ツリー・オブ・ライフ』と霧の中の一本の木

このまえ、世間並にお盆休みをとった。土日を挟んで5日ほど、遠出せず、比較的のんびりと過ごしたが、いま振り返ると、ある意味でお盆らしく、親、とくに「父」の形象(イメージ)がおぼろげに付いてまわった休日だったようにも思える。
110825.jpg12,13日 2日連チャンでバンドの練習。メンバーの何人かで集まるのは約2か月ぶりだが、越谷のいつものスタジオで、ながい時間がとれて、ゆったりと、思いっきり楽器かきならし、声はりあげて、いい汗かいて、ユカイな飛び入りありで、ノリノリでたのしかった。
父親につづいて母親の介護が必要だった去年のいまごろまでは、つねに母や家のことが気がかりで、こんな風にバンドの練習に好きなだけ時間をさくことなど考えることさえできなかった。
幸福な時とは「忘我入神」状態(エンスー状態)になっている時だというが、音楽においても、もっともしあわせな状態は自分を忘れることのできるようなそんな時である。「音楽」すること(演奏するだけでなく「聴く」ことも)は、そのフローな心的状態が現象しやすい行為であると言ったほうがよいかもしれない。
14日 盆の迎え火。妹2人と義弟1人来宅。夕食は近くの「回転寿司」へ。家人と娘も含め計6人。昼に久しぶりにみんなでカラオケに行った勢いもあり、かなりハイになって、にぎやかに飲み食い。安くてサイフの心配もせずに済むので、ガンガン皿に手を伸ばし、あれこれ注文。あっと言う間にテーブルが皿とビールビンでいっぱい。需要(口)が供給(手)に追いつかない。これも没我入神状態? こんなんで幸せ気分になれるんだから、なんとも安上がりにできているわれら親族。っていうか、じっさい、安手だけどシアワセな社会なんだろう。
しかし3・11以降、確実に日本全体に忍び寄る得たいのしれない影はその濃さを増している。行き場のない「不安」や「怒り」が渦巻き溜る一方で、それを解決・発散できないことのいらだちが、世の中全体を覆っているのを、自分の精神状態を省みてもわかる。せめて一瞬でも忘れたいということだ。一瞬だけど。
夜、寝る前にDVDでアン・リー監督の『ハルク』(2003年)を見る。主演はエリック・バナとジェニファー・コネリー。原作はアメコミで、昔TVでやっていた『超人ハルク』の劇場映画版である。
昨今の同じアメコミ原作ものでも『スパイダーマン』シリーズより、ぼくは気に入ってたのしく見れた。とくに、『グリーン・デスティニー』(2000年。これ、けっこう好きで2回見た。原題は臥虎蔵龍、音楽はタン・ドゥン)のアン・リー監督ならではの、ワイヤーワーク風(じっさいは、CGが主なんだろうが)空を飛ぶような跳躍シーンは見ていてなかなかの快感。傑作、快作というほどではないが、アナログ風な安手な感じが残っていて、妙な思い入れがない分かえって好感がもてる。
この手の、フランケンシュタインの怪物以来の、マッド・サイエンティストと彼の科学実験の失敗の産物である怪物(怪人)の悲劇を描く恐怖映画の「系譜」は、なぜか好きである。たとえば、かなり昔の『ハエ男の恐怖』(カート・ニューマン監督 1958年)はなかなか不気味で笑える傑作だと思った記憶がある。
2008年に同じ原作で『インクレディブル・ハルク』(ルイ・レテリエ監督、エドワード・ノートン主演)が作られたのは知っているが、まだ見ていない。多分、あの『ハルク』の浮遊感と安っぽさは薄まっているだろう。いずれにせよ、失敗した改造人間の系譜に属する「ハルク」は、マッドな父との葛藤(怒りと赦し、そして継承/遺伝)が主題のひとつになっている。
そうなのだ。やはり、怒り。ハルクの変身には、怒りのエネルギーが必要だ。だからいまごろになって、『ハルク』など見てみる気になったのだろうか。
「アリ研」風に言えば、われわれには、怒りをハルクのようにタメ込み、フィジカルな「力」として爆発させるのではなく、メタフィジカルに言(ロゴス)に変換する忍耐と卓越的力量(アレテー)が問われているのかもしれない、かな? 「観想」と「実践」の一体化を急がなければならない。
15日 家人、娘と実家近くの国立国際第一病院へ、義父の見舞い。ものが食べられず、やせほそり、骨張っているどころか、骨に皮膚がはりついているだけのように見える。同語反復ではあるが、人間の形姿の骨格は骨がつくっていることに改めて気づかされる。自分の身体のなかの骨(骸骨)をもう一人の人格をもった自分として意識しすぎてノイローゼになる主人公が出てくる、昔読んだレイ・ブラッドベリの短編小説を思い出した。
意識はしっかりはっきりしているのでよくしゃべるが、骨が話しているよう(骨振動で?)。変な言い方だが、子にとってそもそもが柔らかい「肉」の母親に対して、父親は一本の木のようにゴツゴツと硬い「骨」としての存在なのかもしれない。老いるほどにそう感じる。
それにしても、義父、義母というのも不思議な存在である。ぼくは、親族という関係を離れて見ても、この義父と義母は好きな人たちだが、それは逆にある種の距離感があるから言えることなのだろうか。
110825-2.jpgこの病院に来たのははじめてだが、大きくて立派で近代的なのに驚いた。窓からの眺めもすばらしく、義父の病室からはスカイツリーが遠望できる。
看護婦さんが義父の身体を拭きにきてその場をはずすように言われたので、部屋(個室)の外に出て、迷路のように入り組んだ廊下を歩いてみた。すれちがう人が少なく、白衣姿もほとんど見かけずで、あまり病院にいるという感じがしない。入院している義父の部屋がある15階に直接エレベーターで来たせいか(ぼくがこういう大病院をあまり知らないからか)、まるで無機的で無個性な感じのホテルにでも来たよう。清潔で衛生的で、「余計」なものは何もなく、有機的な生命の過剰と個有性を消去することで、「死」を意識させないよう「配慮」している感じ。病室には名札も出ていない。清潔なのは病院だから当たり前だが、近年の大病院は、そこまで「計算」にいれたつくりになっているのだろうか。家族の休憩・談話室みたいな部屋があったので、そこの自販機でスポーツドリンクを買い(この日も暑かった!)、窓の景色をスマホのカメラで1枚(上の写真)。
夜、はいじまさん(現代美術家で本サイトの「亀甲館便り」でもおなじみ)からお借りしたDVDで、テオ・アンゲロプロス監督の『霧の中の風景』(1988年)を見る。素晴らしい!の一言。これこそは映画=詩である。彼の他の作品のようにギリシアの現代史をあまり知らなくとも、映画に入り込めるという意味で、アンゲロプロスのなかでもより「わかりやすく」普遍的で詩的である(その後の『永遠と一日』(1998年)に位置付けとして近いものを感じる)と思う。
しかし、詩といっても「ポエム」というようなほんわかとしたイメージのものではなく、全体として暗鬱だが透明で鮮烈な気配のただよう叙情詩であり、かつ叙事詩的な神話性もそなえた、どこを切っても詩(ポエジー)が充溢している作品。どんな紋切り型の形容詞も、口に出した瞬間に「いやちょっと違う」と、恥ずかしさで身を引っ込めるような、形容できないと形容するしかないような「またとない」詩としての映画である。
音楽はエレニ・カラインドルー。思い返せば、千葉県大原のはいじまさんのアトリエにお邪魔したとき、「おみやげ」として持参した彼女のCDをはいじまご夫妻が気に入ってくれたことが、アンゲロプロスを全作見直そうという機運の盛り上がりにつながったのであった。はいじまさんはアンゲロプロスの「全集」を1巻ずつ間をおいてDVDでお買い求めになるようになり、ぼくはそれをお借りして見直す(半分以上初見であるが)恩恵に与っているというわけなのだ。そして現在、見た作品の感想を互いに述べ合う(聞き合う)のが大きな愉しみになっている。
110825-3.jpg16日 西新井でテレンス・マリック監督の新作『ツリー・オブ・ライフ』を見る(写真はプログラムの表紙)。たまさか前日に『霧の中の風景』を見てしまったせいか、先に「評価」を言ってしまうと、私にとってこれはちょっと期待はずれの退屈な映画だった。寡作で知られる「伝説の監督」マリックの新作で、カンヌでパルムドールを受賞した記憶も新鮮なだけに、期待するなというほうが無理。それだけになおさら、ちょっと、、、なのである。
いかにも「いかにも」なのだ。むろん、「見たら損」というほどひどい映画だとは思わないし嫌な映画でもない、また「見どころ」がないわけではないのだが、どういえばよいのだろう、説明過多でそこまでしなくてもわかるよと言いたくなってしまうのだ。しかも、その説明を「詩的」に(形容詞的に)見せようとする意図が見え見えなもんだから、かえって思わせぶりなわざとらしい感じに受け取れてしまうのである。
木々に囲まれた川の浅瀬に恐竜(!)が出てくるシーンは、『シン・レッド・ライン』の兵士を恐竜に置き換えたようで、なぜかあの場面が好きなぼくは「おっ!」と思った。部分的に言えば、あの恐竜が川辺を走るシーンは、マリックらしい「水」と「風」を感じられて好きなのだけど、それが全体としてはわざとらしく見えてしまうのは、シーンとシーンの関係、そのつなぎ方、モンタージュの仕方がやはり問題なのだろうか。
この映画を評価する人は、おそらく、このイメージの連鎖が詩的で神秘的で哲学的で良い、と言うのではないか。しかし、何度もいうが、ぼくにとってはこのイメージの連鎖は、理屈っぽくて、優れてはいるがTVの自然映像のコンピレーションを見ているようで、教育効果はあるかもしれないが映画としてはちっとも興奮しなかった。要は、映画をどういう「期待感」で見るか、どういうコンテクストおよび視角から見るかで評価が異なってくるということだろう。
あの科学番組風の自然映像は、それ自体の驚きとして自然のもつセンス・オブ・ワンダーを描く目的というより、何かの手段として、たとえば「神」の存在を匂わせるために演出上利用しているに過ぎないように見える。
『ツリー・オブ・ライフ』という題名からしてダーウィン的な進化の系統樹を連想させる。マリックはアメリカの一家族の歴史と宇宙・生命の進化史をパラレルに描き、「進化」のなかに神の遍在性を見ようとしても見出せず、日常に潜む生と死の謎を前に苦悩する人間、その人間の問いかけに対する神の沈黙という壮大で普遍的なテーマを浮き彫りにしたかったのだろうが、すくなくともこのアジアの「辺境」日本の一都市の住民であるぼくにはあまりピンとくるものではなかった。その知性が技巧的すぎる、いかにもインテリくさいのだ。
つまり、普遍性を感得できるほど「そこ」に身を入れることができなかった。観念的・解説的で、理屈抜きに感覚からすっと「物語」の中に引き込んではくれない。とても知的で優等生的ではあるが、退屈といったのは、その意味である。それと、このピューリタン的というか、進化論とエディプス・コンプレックスの桎梏に囚われたというか、この頑なさと生真面目さは息がつまる。肩が凝っていけない。長時間見せられると、もう勘弁してよ、と言いたくもなる。この映画はその意味で、厳しい「父」(神)との反目と赦し、葛藤と和解をもとめる物語でもあったわけだが……。見る方は、最後まで赦された感じがしない。
 ★
ツリーといえば、先日このブログで書いた、「森と芸術」展の紹介のさいに引用した言葉が思い出される。「人間の未来を信じる者は、心の中にひそかに一本の木を持っている」(ピエール・ガスカール)という言葉である。
この木はどんな木だろう。このところ、この言葉に呪縛(魅惑)された気味のあるぼくは、ほとんど無意識にこの木を探そうとしているのかもしれない。期待と言ったが、おそらく『ツリー・オブ・ライフ』にもこの木(ツリー)をもとめてしまったのだろう。
しかし、この映画のなかに、ぼくの求める木を見出すことはできなかった。「一本の木」は華々しく喧伝されたこの新作映画ではなく、ほぼ忘れかけていて、見ることのできる機会も少ない昔の作品、ある縁で手にできたDVDというメディアのなかにその身を潜めていたのである。『霧の中の風景』にである。
ラストシーン。父をもとめる旅をしてきて、痛切な体験の果てに、とうとう「国境」を越えたかに見える姉と弟。川を渡る二人の乗ったボート、一発の大きな銃声。岸辺に立ちこめる真っ白な霧。霧の中へと歩んでいく子どもたちの前におぼろげに姿を見せる、葉は繁っていないが枝ぶりのよい一本の大きな木。一瞬、ワヤンクリット(人形影絵芝居)の「世界樹」を連想させる木。
この木は、霧のような何も写っていないフィルムの切れ端の中に、したがって映画であることの比喩でもある霧の中に、不思議な亡霊のように唐突に、しかし自然に立ち現れる。そして、姉弟である二人の子どもを、二人が探し求めてきた父でもあるかのように、その幹に抱きとめる。この木は、子どもたちの、そして私たち「人間」の心の中の一本の木にほかならない。
思いもかけずこんな場面に遭遇する驚き。こんな出会いこそが映画であり、人生(ライフ)なのではないだろうか。


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コメント

“『ツリー・オブ・ライフ』と霧の中の一本の木” への2件のフィードバック

  1. waheiのアバター

    バンド活動、楽しんでますね。こちらも、早く夏休みをぬけて、自分の時間を作れるようになりたいなと思ってます。
    日記に触発されて、僕も木のイメージを自分の中でふくらませています。
    つい先日、NHKの「こころの時代」という番組で、作家の作家・徐京植(ソ・キョンシク)さんが、福島の原発事故汚染地域を取材した番組を見たのですが、そのなかで「根こぎ」というキーワードがありました。
    つまり、今回の事故で、自分の住む場所の根が、文字通り根こそぎ取られてしまったというのです。
    木も、実はその枝と同じぐらいの根を、土の中に這わせているといわれますよね。
    木に、現代の僕らたちが惹かれるのは、その実体は、もしかすると木そのものだけではなく、目に見える部分の木に必ずある根が弱っているのではないかという直感が働いているのかなと感じ始めています。

  2. Iz Ishiiのアバター
    Iz Ishii

    デラシネ(根無し草)という言葉が流行った時期がありました。当時はその言葉に、なんかカッコいい響きを感じていました。
    しかし、いまは、ある意味で逆ですね。根が腐るくらいなら、それを断ち切って浮浪するほうがいいが、その前に根をはるべき土壌(土地)が奪われる——。それによって、身内が被害をうける、土地を奪われる、住む場所を追い出される、というのは、もっとも「怒り」に結びつく事件だと思います。
    この理不尽さは、原発という人為が原因になっているわけで、人の尊厳を人が蹂躙するという「根っこ」の意味では、近代の戦争と同様であるという気がします。
    ・・・いずれにせよ、とても「根深い」問題ですね。また、複雑にからみあった問題でもあります(社会の感受性、直感力が弱っているということは単純に言えるのですが)。
    われわれの希望の木が育つ土壌をどのように豊かにしていくのか。
    また、ご意見をきかせてください。