さる週末の一日

20110620.jpg東日本大震災からちょうど3か月たった6月11日の土曜日、小雨の降る新宿で久しぶりに映画を見た。目黒へ出て庭園美術館に行くかどうかでちょっと迷ったが、この日は新宿にした。映画は、イタリアのマルコ・ベロッキオ監督『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』。数日前にはいじまさんから電話があり、なかなかいいからあなたもぜひ見るといい、と教わったという事情もあったし、近いうちに行きたいと思っていたカミさんの実家にも寄りたいし、、、ということで、そのカミさんと朝から出かけたわけだ。
家を出るのが遅れ、ぎりぎりだったけど、JR新宿駅から急ぎ足で「シネマート新宿」へ向かい、初回の開映11:00にかろうじて間に合った。
この監督の映画を見るのは初めてだったが、久々に堂々とした骨太の作品を見たような気がした。メリハリの効いた演出で、夜のシーンが多く、逆光をつかった人物のシルエット表現も美しく、なんというか日蝕のような、影がその後ろの光源の存在を強く感じさせるような効果を画面におよぼしていた。当時のニュースやいくつかの映画の上演シーンが、この映画に出てくるのも、こちらは月蝕を思わせ何か暗示的。そしてなにより、ムッソリーニの愛人を熱演する主役の女優がいい。どこかで見た覚えがあったが、あとでプログラムを見て、この女優ジョヴァンナ・メッゾジョルノはガルシア・マルケス原作の『コレラの時代の愛』(06年。マイク・ニューウェル監督)に出ていたのを思い出した。
映画が終ったとき時計の針は午後1時をまわっていて腹もすいたので、実家に行く前にともかく昼食をとることにしたが、さてどこにしようか。
三丁目の交差点でどっちの方角にある店にしようかと周りを見回しているとき、ふと思い出して、少しだけ四谷方向に歩いたところにある「隨園別館」という中華(北京料理)の店に向かうことにした。
3月の末、仕事関係の知人でこの日退職するある女性の送別会に呼ばれ、一度この店に来たことがある。そのときは食うよりも酒と話に夢中になっていて(それとこの頃は強い余震もまだちょくちょくあって気持ちがいまひとつ落ち着かず)店自体はあまり印象に残らないまま忘れかけていた、けど、思い出してよかった。もう一度来てみて、意外にいいな、と改めて思った。
水餃子、冷やし中華、焼飯、スープ、杏仁豆腐の飲茶ランチがなんとセットで750円。この本格中華の、この旨さとこの量でこれは安い! 安すぎる。メニューに記されている数字の読み違えじゃないかと、皿が運ばれてくるたびに見直したほど。1本ビールを飲んで2人で2000円ぴったし。些か派手な店の構えの割には、店内は高級料理店のような金ピカの「絢爛」さはなく、かえって気取ったところがなくて店のやや古びた雰囲気も、ぼくなんかにはこのほうが落ち着く。
安いだけではしょうがないわけだけど、ともかく昔からあるようなこの「普通」な感じがいいし、それでいて複雑で玄妙な味わいをさりげなく隠し持っているかのように、どれもが美味しい! ことに水餃子。この店を教えてくれた送別会の幹事さんに遅ればせの感謝である。また、来よう。
その後、新宿駅まで歩いて戻り、大江戸線で牛込柳町の家内の実家へ。義母と義妹とその子ども、飼い犬の吠え声と猫のオシッコの匂いと産んだばかりの鶏(なんと浴槽で飼っている! 四羽も!)の卵に迎えられた。また、原宿で国芳展を見てきたという姪っこが一足先に着いていた。手土産に新宿で買ってきたわらび餅を食べながら、国芳の猫や鯨や骸骨、若冲の鶏や象や虫の話で盛り上がったあと、別室のやせ細った義父を見舞い、1週間早い「父の日」のプレゼントを家内から。
そういえば、ここ、家内の実家へ来るのは、3.11の震災の日以来である。あの日、ぼくは地下鉄で移動中に地震に遭い、日比谷線・仲御徒町駅で6時間くらい足止めをくったあげく草加市の家には帰れず、この牛込柳町の実家にお世話になったのだった。ちょうど3か月前のことである。
もう3か月、まだ3か月。震災後何も変わっていない。津波と原発事故で「世界」が変わってしまった(現実と思っていた世界への信頼感を失った)後、変わったままでまだ何も変わらないように見える。己の姿を取り戻せるのはいつか。その後ろ姿を追いかけるのか、新しい自分と向き合うのか。この現実の世界が現実感を取り戻せるようになるのはいつのことだろう。
娘の一人が待つ家に夕飯前に帰宅。駅前のスーパーで買って帰った弁当を食す。種類は三人三様で、ぼくは天丼。プラスティック容器のまま電子レンジでチンして、少しあっためたのを缶ビールで流し込む。

森と芸術

就眠前に寝床で、読みかけだった『森と芸術』(平凡社)を読み終わる。この本は現在東京都庭園美術館で開かれている「森と芸術」展のカタログであり解説書でもある。監修・著は巖谷國士先生。先生と書いてみたのは、文字通り大学仏文科のときのぼくの恩師だった人だからである。じっさい、ぼくにとって一種の畏れとともに真に先生と呼びうる数少ない人、というかほとんど唯一の人である。図版や写真類はもちろん見るだけで楽しいが、やはり、いつもながらに、巖谷さんの主観と客観が一体となったような透明で鉱質な文章、さまざまな連想が繋がることによって不思議で懐かしい世界が喚起されてくる文章がすばらしい。
いつもながらといったが、しかし「後記」には少し別の意味で驚き感動した。いつもなら滅多に「現実的」で時事的な社会の話題には触れない人だけど、この「後記」で3.11の大震災のことに言及しているのだ。書き方はごく「普通」の淡々としたものだが。「展覧会の図録としてのこの本の仕上げにむかっていた3月11日に、未曾有の大震災がおこりました。これはやはり記しておかねばならないことです」という書き出し。それが、TVのニュースで瓦礫のなかで若木をのばす一本の木の映像を見た話になり、この本の森と再生いう主題に自然につながってくる……。
くわしくは本書を見てほしいが、最後にこの本の「後記」のおしまいの言葉を引用したい。この言葉自体がじつはピエール・ガスカールという小説家からの引用なのだが、まさに、誰が言った言葉なのかといった個人名やコピーライトを超えて、皆で共有すべき「公共財」となる言葉であると思うからだ。
「人間の未来を信じる者は、心の中にひそかに1本の木を持っている。」

たしか伊勢英子の絵本にもそっくりな言葉があったような気がするが、こんど調べてみよう。
庭園美術館の「森と芸術」展は7月3日まで。その後全国数ヶ所を巡回するが、会期中に庭園美術館を再訪したいと思いながら、眠りの森のなかへと迷い込んでいったのでした。


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コメント

“さる週末の一日” への7件のフィードバック

  1. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    石井さま
    「森の思想」は最近では中沢新一をはじめとして、かつての宮沢賢治や
     南方熊楠など日本にも伝統的に根付いているように思われます、、、、
     水生生物から陸上へ揚った余りにも昔の陸上動物(人類の祖先)の記憶
     より、類人猿より地上に降りて「楽園」を失った原人類の記憶のほうが
     我々には近しいようでもあります、、、、、
     たしか B.ベルトリッチ監督にも『暗殺の森』なんて題の映画があった
     と記憶しています、、、、
     アフリカ、南米、中東欧、亜熱帯アジア諸島など「森」にも様様な形態・
     様相があると思われますが、日本の森にはやはり 縄文文化の血を引く
     「山の民/山岳民族」が一際相応しいようにも思われます、、、、
     とりわけ、東北地方の「森」は日本文化の一つのルーツとして将に今後
     注目を浴びるような予感もしますが、、、、、
     

  2. waheiのアバター

    「人間の未来を信じるものは、心の中にひそかに一本の木を持っている」本当にそうですね。その木を育てられるか、が自分だけでなく、次代を拓くかどうかのカギになるように感じました。
    庭園美術館、大いに行きたい気持ちになりました。時間をなんとか作らなくちゃ。

  3. Iz Ishiiのアバター
    Iz Ishii

    ありがとうございます。
    おわかりのように、先日のアリ研MLには、『森と芸術』を読んでいたことが影響しています。
    それと、『悲しき熱帯』。
    「世界は人間なしにはじまったし、人間なしに終るだろう」というこの書物の最後のほうの言葉も、今度読んだときは、それほど悲観的なばかりには響きませんでした。
    人が生きのびるには森を「もう一度」獲得しなければならないでしょう。

  4. naohnaohのアバター
    naohnaoh

    白川に来てみて、自分がアタマで理解していた「森」が何だったのかと考えてしまいます。
    原生林のブナ林を歩くと、ツキノワグマの爪痕や希少な野鳥の鳴き声、足元の植物など、森は生物多様性のゆりかごとの思いを強くします。
    そこには、人間に服従しない高潔な気概を持った大いなる力を感じます。
    ソローはこの力を感じたから、「われわれの目をくらます光は、われわれにとっては暗闇である」という言葉を残したのではないでしょうか。
    「隨園別館」は若いころ足しげく通いました。家人とのデートコースでした。
    その縁で「隨園食単」を読みました。

  5. Iz Ishiiのアバター
    Iz Ishii

    素敵なコメント、ありがとうございます。
    森は圧倒的な情報量をもっていると思います。
    「森の人」は「好奇心の人」だったのではないでしょうか。
    そうでなければ、生きのびることができなかった。
    そして、多分、森で生きることに飽きるということはなかった。
    詩人のランボーは、自分のことを「都会の中の野蛮人」と呼んでいました。この言葉がずっと気になっていました。
    この野蛮人(ソバージュ)というのは、いまだったら、未開人とか野生児と訳したほうがまだよさそうに思います。おそらく、19世紀当時パリにも何人かは連れてこられていた、じっさいの南米大陸の先住民を指していると思われます。
    つまり、「森の人」。ランボーは自分が都会の中の異人であると疎外感をもちながら、都会に森を見ようとした人だともいえるんですね。
    ランボー自身は、十代で詩を捨て、パリを捨て、森ならぬアラビアの砂漠へ行き、姿を消してしまいましたが。
    ・・・なんか、関係ないような話になってしまいましたが、naohnaohさんが「好奇心の人」であることに免じて、お許しを。
    「隨園別館」を知っていらした!「食」に対する嗅覚も教養もさすがですね、、、。まさに森の人? 

  6. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    今日やっと『愛の勝利を』を鑑賞してきました。
    <石井様の紹介で本当に久しぶりに映画館に足を運んだ次第です>
    やはり 本格的なイタリア映画を堪能した感じですが 以下切れ切れの感想を
    少々。
    ムッソリーニを中心としたイタリア現代史を十分に理解していないと
      一回の鑑賞では 中々全体のストーリーが掴めないと思いました
      <時間と場所と出来事が複雑に錯綜しています、、、>
    特に政治と宗教(カソリック)の複雑な関係は様々な形で表現されていた
      ように思います。
      <ラテラノ条約の扱いとか 女主人公が幽閉される?精神病院など、、、>
    全編に数多く挿入された記録フィルムに映し出される「歴史的現実/事実」
      が圧倒的な存在感を与えてくれます
      <特に、ムッソリーニの演説に集まる群衆の姿は『大衆の反逆』そのもの
       の戦慄を与えます>
    音楽(オペラの旋律)が全体的に効果的に扱われていました
    作中で様様な映像/映画を上映させており、その伴奏音楽としてピアノ
      を使用しているのに興味を持ちました
      <チャップリンまで出てくるとは、少し驚きました、、、、>
    一番印象に残った映像は、教会堂?の窓全面に雪の舞うなか女主人公が切なく
      外界との繋がりの手を求めるシーンです
    政治という魔物に魅入られていく男(自身が全身にオーラを纏う)に抗いも無く
      全身全霊で魅入られていく女の宿命/哀れさ?が、この作品のテーマと総括
      いたしましたが、、、、、
    2011・8・15
    庵頓亭主人

  7. Iz Ishiiのアバター
    Iz Ishii

    映画でいえば、私は昨日、カンヌでパルムドールを受賞した話題の『ツリー・オブ・ライフ』(テレンス・マリック監督)を見てきました。けっして悪いということではないのですが、大いに期待していただけに、ちょっと・・・(?)でした(マリックの『天国の日々』や『シン・レッド・ライン』はけっこう好きです。『ニュー・ワールド』も嫌いじゃない)。
    前日DVDで見たアンゲロプロスの『霧の中の風景』は素晴らしかった。
    この作品は文字通り「詩(ポエジー)」であると言えるけど、こっちと比べてしまうと、『ツリー』のほうは詩情はあるかもしれないけど詩ではない、詩「のようなもの」にすぎない。いかにもフォトジェニックで美しい映像の連続なのですが、まさに「いかにも」で、そこに「驚き」がない、、、。ちょっと退屈でした。
    ギリシアのアンゲロプロスと比較すること自体がおかしいかもしれませんが、でも、たまたまであるにしろ、つづけて見てしまったのだから仕方ない。どうしても比べてしまう。
    乱暴な言い方ですが、アメリカ(ハリウッド)映画の知性の限界といったものを感じてしまいます。この手のものに関しては、庵頓亭ご主人の嗜好からもいえますように、やはりヨーロッパの「大人の」知性とセンスにはとてもかなわないような気がします。
    いつか時間をみて、両者のことを書ければ書きたいと思っていますが、、、
    取りあえず、お礼にかえて。