レンタルショップで借りたDVDビデオを忙しくて見れないままに期限がきて、仕方なしにそのまま返すことがときどきある。
『クジラの島の少女』がそうだった。この2、3年のあいだに2、3度借りたのだが、なぜかその度に仕事や家事でザワザワして落ち着いた時間がとれず、見る機会を逸したまま1週間が過ぎてしまう。延滞料を払うのはばからしいので、取りあえず見ないで返却するわけだ。
そのまま見る気が失せてしまい、この先も見ないまま終るものもなかにはあるだろう。
しかし、『クジラの島の少女』はそうではなかった。新作やら他の見逃していた作品を優先して借りるうちに忘れかけてはいたが、この度、またまたショップの棚にこのDVDを見つけ、やっとこさ見ることに相成った次第。
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やっぱ見てよかった! 見ぬままに終らず、感謝である(何に?)。
泣けるほどに(じっさい、見ている間中、涙腺がゆるみっぱなしだった)。
手短に書くと、、、
ニュージーランドの海辺に暮らす先住民(の子孫)たちの、「共同体」の解体と再生をテーマとした作品。伝統とその継承、昔からの習俗(掟、エートス)と新しい時代のライフスタイルとの齟齬と葛藤。ひとりの少女を主人公とし、語り手とした神話的世界の再構築・・・。
いつものように映画のくわしい筋(ストーリー)を書くことは控えるが、図式的にいうとそんな「よくある」物語である。
しかし、ある意味で「紋切り型」のこのお話に感動してしまうのはなぜだろう。
ラスト・シーンはハッピー・エンドで終るが、比較的「低予算」で作ったと思われるこの映画にこめられた「祈り」が、それゆえより素朴に生(き)のままに伝わるからだろうか。
世界の秩序再生への願いと希望は、このパッピー・エンドによって普遍化され共有されるからかもしれない。
いや、映画の完成度としては、結末がハッピーであろうとなかろうとどっちでもよいだろう。
クジラに乗った少女が波の彼方に消え去るシーン(この映画の原題はWhale Riderである。カッコイイ!)。往年のフランス映画『白い馬』(アルベール・ラモリス監督)のラスト、少年が馬とともに海の沖へと消えていくシーンとダブッて見えるあの場面で、この映画も終わってよかったのかもしれない。
しかし少女=クジラと少年=馬をあえて対比して見ると、前者は、後者が「個」であるとしたら、私たち自身も含まれる「共同体(集団)」の再生の願望を体現しており、映画の「夢」から覚め現実世界へと還る私たちにとって、そこで生きていくための絶望の出口を指し示す楽観的結末が必要だったといえなくもない。作品の見た目の「芸術性」や過剰な演出よりは、そっちのほうがこの映画の「ねらい」に沿ったものだったように思える。
また、少女の「よみがえり」は、共同体の長(老人)をゆるし(ゆるされ)、伝統を殺さず(また伝統に殺されず)に刷新し、新しい時代へ漕ぎ出す世界(共同体)の儀式としてなくてはならぬことだったはずである。
流行のコミュニタリアンであるとなしとに関わらず、いま私たちには、希望へとつながる神話がもとめられている。
それは集合的な何か(取りあえず、ユングのいう集合的無意識と言っておこうか)との接触のためのひとつの「乗り物」である。現代においては、ある種の映画や小説にはその「乗り物」としての機能を備えているものがある。
この映画は、ラスト・シーンの「生き返った」カヌーのように、乗り物としての神話、その改修への祈りを双子のかたわれである少女に託して語られた現代の小さくて大きな物語である。
蛇足ではあるが、神話とはある意味で、つねに自然と人間の共存・共生(その一体性からの分離と結合)の物語である。
この映画における少女とクジラとの交感は、私にライアル・ワトソンの忘れ難い名作『未知の贈りもの』を想起させる。ニュージーランドの少女は、あのインドネシアのレゴン・ダンサーであるもうひとりの少女の系譜につらなっているように思える。おそらくそれは琉球の諸島とも。
Whale Rider
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コメント
“Whale Rider” への2件のフィードバック
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クジラの島の少女、は確か早稲田松竹で見た記憶があります。石井さんのいわれるように、図式的によくある話ではあったと思います。でも、たぶん、この少女のひたむきさが、なぜか心を打つんじゃないかな?(それは、こちらがオジサンであることの証明かもしれません)
少女が活躍する映画というと、「チョコレート・ファイター」もおすすめです。タイのアクション映画ですけど、これまた主人公がかわいいんです。主人公の少女は自閉症という設定で、その意味でも僕にとっては印象深い映画でした。 -
オジサンでなくとも人の「ひたむきさ」には誰だって心を打たれるものと思いますが、オジサンならなおさらなんでしょうね。少女っていうことでもうちょっと正確に言うと「けなげさ」なのかな。
オジサンは健気な少女に弱い。それと茶目っ気。それはなぜか。かわいらしさを感じるからなんでしょうが、そのかわいいものを守りたいというオジサン(親)の心理を、生物学と「聖なる次元」との関係で考えてみるのも面白いかもしれませんね。
オジサンっぽい言い方ですみません。じっさい、オジサンなんだから、、、
でも、少女的なものや柳田国男のいう「妹の力」には若いころから惹かれていました。
太陽よりは月、♡(ハート)よりは♢(ダイア)、、、
いわゆるロリコンとは、ほとんど無縁の気がします。
それに(関係ないけど)、この前いまごろになって、スタンリー・キューブリックの『ロリータ』を見ましたが、好みでいうと、あの少女は大人びていてちっともかわいいとは思えませんでした(^_^)。
俗な意味でのロリコンからいっても、あの映画は少女に対する性愛嗜好のコンプレックスというより、性愛から派生する「監禁」につながる支配・被支配の権力構造がテーマであると見ました。西欧的な主人と奴隷のパラドックス、、、
ナボコフの原作は読んでいませんが、キューブリックはそのあたりの性の政治性を描きたかったんでしょうね。それは晩年の『アイズ・ワイド・シャット』にもいえることだと思います。
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