絵本の森、森の絵本

寺村摩耶子さんとお会いしたのは先月、配島庸二個展【焼畑の神を祀れ】のオープニングの日だった。
Tさんというやはり以前配島さんの展覧会や「割れ茶会」で縁のできた方からのご紹介だったが、寺村さんは、驚いたことに大学(明学の仏文、同じ先生のゼミ)のぼくの後輩にあたるという。

絵本の子どもたち--14人の絵本作家の世界

絵本の研究や評論をされているようで、『絵本の子どもたち』(水声社)という寺村さんの書いた本もそのとき見せてもらった(見ただけで、読んではいないけど、目次にぼくの好きな絵本作家の名前も何人かあがっていた。島田ゆかの名まであって、ニヤッとしてしまった)。以来、なんどかメールをいただいたが、そのうちの一通に近々軽井沢の絵本の森美術館に行って・・・云々、と書いてあった。
寺村さんは「えほんのふろく」っていうブログをネットで公開しているのだけど、そのメールの数日後のブログを見ていたら、さっそく絵本の森美術館のことが出ていて、その文や写真に不思議な既視感のようなものを感じた。
それもそのはずで、ぼくはすっかり忘れていたのだけど、この絵本の森美術館には以前に一度行ったことがあるのだ。このブログを読んでいるうちに、急に思い出した。
寺村さんは、この記事で木葉井悦子(きばい・えつこ)のことを書いている。没後15周年の回顧展がここで開かれており、そのことを写真とともに報告しているわけだ。
ぼくは前に夏の休暇でたまたま軽井沢に行って、自転車であてずっぽうにあっちこっち走り回っていたとき偶然この美術館を見つけた。
5,6年前のことだ。
そのときここでやっていたのが、木葉井悦子展だったのである。そのことを思い出したのだけど、今年が15周年ということは、あれは没後10周年の企画展だったのかもしれない。
軽井沢での休暇のことはもうよく覚えてはいない。しかし、木葉井悦子の「絵」に関しては、見た瞬間に目が驚きに打たれ、深く感動したことが、これをきっかけに美術館の木の建物や庭の印象ととも記憶の底からプカッと浮かびあがってきたのである。
そうか、寺村さんに会ったとき見せてもらった本の目次に名前の出ていた木葉井悦子って、あのあれかっ! と寺村さんの本とネットとぼくの記憶がリンクして、俄に彼女の絵を見たときの感覚が甦った次第。
絵本の森美術館で目にするまで木葉井悦子のことはぜんぜん知らなかった。あれも意図せぬ偶然の出会いだった。あのとき、なんというか、色彩がものの輪郭からはみ出し、生命が洪水にように氾濫(反乱)しているような一種野生(ソバージュというかブリュットというか)のエネルギーの放散に言葉も出ぬほど揺さぶられ、まったく想定外だったのだけど、どうしても欲しくなって、あのとき彼女の絵本を2、3冊買い、なんだか晴れ晴れとした気持ちになって美術館をあとにしたのである。
寺村さんのブログを見た後、家に帰って本棚を探した。あの夏いっしょに軽井沢に行った妻にきいたら彼女は「もちろん」覚えていて、絵本を探し出してくれた。『みずまき』と『一まいのえ』がすぐに出てきて(たしか『サバクでおちゃを』っていうのもあったけど、それはまだみつからない)、あの夏の日の光と影が干した布団のように本からにおい立つようで、なんだかとてもうれしくなってしまった、、、
さっそくこの2冊を読み直してみた。
やはり、すばらしい!
このところ映画で『アリス・・・』や『かいじゅうたち・・・』なんかを見て、いいけどぉ、でもちょっとちがうんだよな〜と「子どもっていうエイリアン」に対して感じていたモヤモヤしていた気分の一端がパッと晴れた気持ち(そもそも表現の手法や、表現したいものの次元がちがうけど)。
この荒削りで「自己」なんてものをつきぬけた底知れぬパワー、でもどこか身に覚えがあって懐かしいといった感じ! すき間なくグチャグチャしていてわけがわかんないけど、大人とは「別の」知性がちゃんとあるって感じ。
なによりも、アフリカン・ドラムの演奏を聴いているような、ワクワクする絵と言葉のリズム感!
だいたい絵本の文は平仮名で書かれていることが多いけど、それは子どもにも読めるようにっていう配慮とは無関係に、意味よりは「まず」音を重視しているからだってことが「自然に」了解されてくる。
「意味」は後からついて来てもいいし、来なくともいい。
ぼくもこの絵本の意味あるいは無意味について、ここで改めて何かを言いたいわけではない。
寺村さんとの出会いによってひとつ偶然の糸がつながり(ここに書いていないことも含め)、この絵本たちが思いもよらず「待っていたように」再び目の前に出現したのだから、不思議といえば不思議。で、絵本の「意味」とは別に人の出会いや別れ(最近、やはり同じ大学/学科出の友人が亡くなったという報せを聞いた)、縁とか時間(偶然)とか、表現することとかについてなんとなくかってに立ち上がってくる思いに身を委ねているにすぎないわけで。
・・・だけど、それも、こういう絵本がもっている何かわからないはたらきなのかもしれないなぁ、などと。
ずーっと買おうか買うまいか迷ったあげく諦めていたアフリカの太鼓(ジャンベだけど)、やっぱ欲しいな〜と考えはじめている。
これも、この数日間ぼくを呪縛(?)している、木葉井悦子の絵本の「森の力」なのだろうか。
どんとはれ。


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コメント

“絵本の森、森の絵本” への4件のフィードバック

  1. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    先のコメントで 芸術(享受)に於ける『現前性』の大切さについて言葉足らずですが少し触れましたが、寧ろあらゆるコミュニケーションに於ける『現前性』に関して今まさに想いを新たにしています。 <どういう訳か、今現在このコメントを京都駅ビル(建築家/原広司の代表作)の一角にある屋外ビヤガ−デンで心地よい夜風に触れながら認めています、、、>
    それで、TさんやKさんの作品とか石井さまとの様々な偶然?の繋がりについて やはり何か『現前性』が関わって来るのではと 勝手に想像し 想いを馳せている訳です、、、
    アファナシエフのピアノではやはりシュ−ベルトのソナタで『幻想』との標題が付いた18番op.78の一枚ものか 19番20番21番の3曲を二枚組にしたものをお勧めします、、、(これらの演奏はある人に寄れば「彼岸の世界」を表現したとのことです、、、)
    あと全く異なった趣向ですが、初夏の屋外でビ−ルを嗜みながら聴くのには ベルリオ−ズの歌曲集『夏の夜』が最高です、、、

  2. waheiのアバター

    人や本に限らず、「出会いと別れ」がなぜ、そのタイミングで起きるのか。本人の生活習慣や意思だけでは変えられないように感じます。
    最近、セネカの『人生の短さについて』と、マルクス・アウレーリアスの『自省録』を読んでますが、その中にも似たような記述があり、これもまた、言葉との偶然の出会いがリンクしたのかなと思ってます。
    このコメントは、最近購入したmacbookで打ってます。久しぶりのmacでOSXは初めてですが、やっぱりいいですね。昔の68kMacとは安定性で雲泥の差です。
    庵頓亭さま推薦のアファナシエフ、シューベルトのピアノソナタは、ショパン同様にDENON版のものですよね。最近購入して聞いてます。彼岸の世界を表現というのは何となくイメージが近いようにも感じます。テンポがゆっくりというのは、いわゆる「タメ」というか、基準となるテンポに対していくらか遅れるということなんですが、その遅れ方が聞き手には基準となるテンポをかえって強調させる効果をもたらしているように感じられます。

  3. 石井のアバター
    石井

    テンポや速度といった問題はおもしろいですね。
    目や耳からはいった「情報」が脳でどう処理され組み立てられるのか。なにかが喚起されるには、それに見合った速度というものがあり・・・
    誰にだってその人固有の記憶があるから、脳も外からの情報をまったくの白紙状態で受け取るということはありえない。
    「基準となるテンポ」というのは、なんなんでしょう。身体化された音楽(言語)経験の記憶という意味でならわかるような気もします。
    感動・共感というのは、ある意味で速度というメタな「情報」を共有することでもあり・・・
    まだちゃんとよく聴いてないのでわかりませんが、アファナシエフのピアノからは、瞑想(観想)の速度といったものを感じます。ミラーニューロンが心地よく活性化されるのにほどよい絶妙な速度とでもいえばよいか。
    その氷に触ったときのような冷たい心地よさが、「彼岸の世界」といったイメージに結びつくのかもしれませんね。
    ・・・なんだか難しい話で、ここでは展開できそうもないのでやめておきます。
    が、とんでもないところからアプローチしてくるお二人のコメントにはいつも啓発されます。感謝です。

  4. waheiのアバター

    リズムとテンポの問題については、NHKで坂本龍一さんがやっている「スコラ:音楽の教室」のベース&ドラム編を見ていて、これまでの自分の理解が腑に落ち、アファナシエフのピアノも、似た部分があるなあと感じたので、先のような書き込みになりました。
    元々、ダンス音楽として発展してきたバッハなどの宮廷音楽、そして1920年代のニューオリンズジャズ以降、気持ちよく踊るために、体の動き(踊り)を揃えるために、一定のテンポを保つ必要があったというのが、坂本龍一さんとゲストのピーター・バラカンさんの意見でした。
    バラカンさんによると、1940年代のモダンジャズの時代から、リズムキープの主役がドラムからベースになった、リズムキープの役割からドラムが解放され、かわりにウォーキングベースがその役割を果たすようになったそう。それを受けて坂本さんが、バッハの通奏低音の強さなども引き合いにして、今のpopsの土台となるリズムにおけるベースの重要性を強調していました。
    これを見ていて、僕は、ではテンポとは何なのか、と考えました。おそらく演奏者は、自分の意思だけでテンポを決めるのではなく、聴衆との暗黙の了解にもとづいて(つまり気持ちよく踊るために必要な)テンポを体で感じて、それを演奏しているのではないかなと感じたのです。これを「基準となるテンポ」とすれば、多くの演奏者は、おそらく、テンポを意識ではとらえていないでしょう。
    また、聞き手も、基準になるテンポを頭の中で意識しつつ音楽を聴いている。それがないと、おそらくつながりのある音楽としては聞けないものになってしまうように思います。
    けれど、アファナシエフは、テンポを極端に遅くとりながらも、旋律に置けるテンポの重要性をきわめて深く理解し演奏しているように思えます。旋律が成り立つためには、一定以上のテンポは必要(でないと、つながりのないバラバラの音が置かれるだけになってしまう)でしょう。それを理解しつつ、転がる玉が、やがて止まる瞬間のように、テンポを遅らせていく。それが聞き手には「死」という比喩で捉えられているのじゃないかな、と感じています。
    このことについては、まだまだ僕の理解不足があるかと思います。もうちょっと時間をかけて、ゆっくり考えて見たいと思っています。

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