馬喰町ART+EATで開かれている配島庸二さんの個展は、意外性を超えてメタにおもしろかった。以下、例によって、前回の「アリス」の拡張版としてひとつ私的な「読み」を。
配島さんの「炭書」による個展『焼畑の神を祀れ』は、「文明の始原」(配島さん自身の言い方)にアクセスするための作品展=儀礼の試みとしてみることができる。ここでいう儀礼とは、常に「始原」へ遡行する営為という意味合いである。
それは世界(自然)と人間が再び均衡(対称性)を見出すためのアート(芸術/人工)の実験のようでもあるし、その作品は古の錬金術/哲学による世界の変成への企図を孕んでいるようにも思える。
文筆家でもある配島さんご自身の、ある意味で饒舌な「注釈(解説)」(たとえば個展のDM)に比して、作品は寡黙である。炭になったうえさらに多くは縄でしばられた本たちの言葉(情報)は封印されている。
私たちは私たちの”心(プシュケ)”で、それを読むしかない。
(DMの案内状には「じつは植物も心を持っている、と、アリストテレス」とある。いま気づいたが、ここにすでにアリスが潜んでいる。「アリス」トテレス)
ここにはしかし、少なくとも「形」がある。形がある以上、「質」もある。
過剰な、あるいは既知の「意味」を極限までそぎ落とされた形質。
コンセプチュアル・アートというよりフィロソフィカル・アートとでも呼んでみたい誘惑にかられるが、そんな言葉さえ過剰なものとして吸い取られそうな、美術作品であると同時になにか得たいのしれない不思議な装置のような。
アリスが口にするお菓子のような、幻覚性植物(『ピストルズ』)の変種のような、空気さなぎ(『1Q84』)のような、、、
物質と情報、生と死の弁証法であるような。
ことに植物や着色した蜜蝋をブリコラージュした配島さんの炭書の近作には、夢見る力を見る者に発動させることで、なにか生命の息吹(プシュケ)といったものを双方に循環(流動)させる装置として、あるいはバージョン・アップされたOSとしての観があり、毎度のことながら、目を見張らされる今回の個展である。
配島さんは「いけばな」に依り代(=インタフェース、つまりメディア→メディウム)としての機能を見ているようだが、じっさい、炭書にいけられた植物(ウバメガシやブナ)の枝はなにかと交信するためのアンテナ、あるいは角のようにも見える。
——グーテンベルク炭書という、火に焼かれ炭と化した本たちはいま、どんな再生への夢を見ているのだろう。
*
展示会のオープニング・パーティのあと、配島ご夫妻を含む友人たち8人で近くの居酒屋にくり出した。
なんとも楽しい小宴会であったことはいうまでもないが、その場の顔ぶれとフンイキは、いまから思うとまるで下町風「アリス」のマッド・ティー・パーティ!
そんな見立てのなかで、ジョニー・デップに代わるマッド・ハッター役はもちろん配島さん!でしょう。いつも、帽子がお似合いです(毎度、不可思議なネクタイも)。
——白ウサギを追いかけていたら、変な穴(落とし所)に墜ちてしまったようです・・・。
個展の会期中、マジメな「お茶会」もあります。
詳細は馬喰町ART+EATまで。
配島庸二の個展と「お茶会」への招待状
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コメント
“配島庸二の個展と「お茶会」への招待状” への5件のフィードバック
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配島さんの個展に触発されて、人によっていろいろに異なる言葉が紬だされて面白いです。
友人に個展をことを紹介したら、「書籍はこれからiPadなどになっていくのかもしれないけれど、私に取っては本の手触りとか、“質感”が大切です」という返事があって、ギョッとしました。
美術の楽しみは、批評という形もあるけれど、こういう「共感の連鎖」のように、他の人がどのように作品を見たか、そして、そのことをどういう言葉で表現したか、という≪体験談≫もありますね
21日、皆さんと、そんな話もできればいいなと思います。
2次会から参加できると思います。 -
waheiさん、コメントありがとうございます。
「ふだんの冒険」も拝読しました。
おっしゃるように「人によっていろいろ異なる言葉が紡ぎ出されて面白いです」。
いま通勤電車のなかで岡田暁生の『音楽の聴き方』(中公新書)を読んでいます。そのなかに、音楽は言葉ではない、したがって言葉では語れないという言い方(言葉によって言葉の非力さをあげつらうかのごときレトリック)は、音楽を神聖視するドイツ・ロマン派以来のイデオロギーにすぎないという一文が出てきます。
「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころか、語らずして音楽は出来ない」とも書いています。
美術も同様だと思います。
矛盾する言い方かもしれませんが、作品が「言葉を超えている」のはある意味で正しいけど、私たちは言葉によって作品をつくり、言葉によって作品を見ている。夢が言葉によってつくられるように。
私たちはエートスや個人の範疇にある言葉によって作品を見立てている。
言葉なしに作品は「成立」しない。
他の人はどんな言葉で作品を見るのか。自他を含め、そんな批評的見方の多様性が作品を豊かにするのだと思います。
その意味で、私たちは作品に「参加している」といっていいのではないでしょうか。
その意味で、もしくは、ある意味で、という留保はつくにしても。 -
またここでもシンクロニシティでしょうか。「音楽の聴き方」は僕も以前読み始めたのですが、冒頭に「音楽を機能で分類する」というくだりがあって、甚だしくそこで引っかかってしまい、読みつづけられなくなっていました。
音楽にせよ美術、あるいは哲学もそうですが、「語ること」がその主体にさまざまな意味を固定化させる機能がありますよね。
一方で、あいまいだったり、あやふやだったりする「感じ」をつかむのは、やっぱり言葉の限界があるのじゃないかとも思います。音楽も美術も、その「語れない部分」のほうが重要じゃないかな、とも思い始めています。
最近、ヴァレリー・アファナシエフというピアニストの弾く、ショパンの夜想曲をよく聴いています。ゆったりとしたテンポで、これまできいたショパン解釈とはずいぶん違う印象です。ピアノを好んで聞くのはキース・ジャレットのケルン以来かなあ。 -
『音楽の聴き方』(岡田暁生)は出版されて直ぐに通読いたしましたが、今ではもうその内容を殆ど覚えてはいません、、、
ただ、「音楽行為」は その生産(作曲)、再生(演奏)、受容/享受(聴取)それぞれが 社会的/歴史的にみて 人間の根源的な文化活動/行為としてお互いに密接に絡み合い繋がっている というような論旨であったようにも 朧げながら記憶しています、、、
それから 蛇足ですが V.アファナシエフは以前 ライブでベ−ト−ヴェンのソナタを聴いたことがありますが、CDではシュ−ベルトの後期のソナタが愛聴盤です。 <ショパンは、すこし・・・・・・なのでは? と個人的には思っています、、、> -
庵頓亭さま。
久方ぶりのコメントうれしいです。
今度、V.アファナシエフのCD聴いてみます。
waheiさんはK.ジャレットに触れていますが、ジャズでは『音楽の聴き方』にD.ブランドの「アフリカン・ピアノ」のことが言及されていて、興味深いです。ともに、かつてのぼくの愛聴版でした。
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