「水の宴」 神話的認識(ミュトロギア)の私的試み(メモ)

090708.jpgきのう(7月7日)、水・土・木(みずとき)ギャラリーで「七夕茶会」が開かれた。本展のコンセプトを「担当」した私としては、自分の考えを整理しておく意味で、前日の夜、下の覚書を書いた。ここに、その隠喩的連想のつながりをそのまま記しておきたい。
展覧会DMの「呼び込み文」には、こう書かれている。
「水の宴。時世の変わり目には、水の精霊メリュジーヌが飛来し、その蛇身をきらめかせて城の上空を三度旋回する——。ケルト的妖精伝説と呼応するかのように、いま、ここにある三者三様の作品は時代の変化の予兆に身を震わせている。変容し、循環する水の宿命。このモノたちは、異なる風姿の内に変わらぬ本性を秘めながら、水の宴へと私たちを招いている。」

■なぜ、メリュジーヌか
○水をテーマとした三人の作品展を開きたいので、コンセプトを考えてほしいという呼びかけがあったとき、こういう依頼ははじめてだし、私になにができるかわからないけど、おもしろそうなので引き受けた。
○いわゆるシュルレアリスム美術にはA.ブルトンを通して関心は持っていたが、私は美術家でも美術評論家でもないので、少し躊躇した。しかし、配島さんに「だからこそ、頼みたい」といわれ、私自身にも刺激になり、勉強になるかとも思った。配島さんの編集的実験精神には、いつも敬意と畏れを抱いている。
○やはりブルトンの著作を通じてメリュジーヌには惹かれるものを感じていた。しかし、ブルトンの本にはメリュジーヌの「説明」はまったくなく、私には水に関連する妖精の一種という理解しかなかった。(たとえば『ナジャ 』には、自分をメリュジーヌに見立てたナジャが星のかたちに髪を結うという記述があるのみ)
○だから、「水」というお題をもらったとき、メリュジーヌが時を隔てて思い浮かんだのは、まったくの直感と偶然でしかない。しかし、私は直感とか偶然というものにそれなりの信をおいている。
○家のどこかに、10年以上も前に買いはしたが読まずにおいたままのメリュジーヌの本があるはずだと思い出した。なかなか見つからず、やはり縁がなかったかとあきらめかかったときに、最後に探した本棚の隅っこに文庫本の背の「妖精メリュジーヌ伝説」(クードレット作)という文字が目に入ってきた。
○本を開いてみると最初にアリストテレスへの言及があるので、ここにも偶然の符号のようなものを感じた。少し前に、「愛知」県の常滑である友人と『形而上学』をちゃんと読みたいという話をしたばかりだったからだ。
○プロローグの冒頭に「あの高貴な『メタフィジカ(形而上学)』の冒頭で、人間の知性は生まれつきものを考え、学び、かつ識ることにむけられるものである、と述べたかの哲学者アリストテレスは、……」とある。
このメリュジーヌの伝説もなにかを「知る」ことに向けられた、「知る」とはどういうことなのかをめぐる物語としても読めるのだ。
クードレット作の『妖精メリュジーヌ伝説』(森本英夫、傳田久仁子・訳 社会思想社・現代教養文庫)から要点のみを掬い取ってみよう。


■メリュジーヌ伝説の粗筋
○中世、西フランスのある地方(ポワトゥ)にレモンダンといううだつのあがらないひとりの騎士がいた。
○ある日、王(伯爵である領主。ここでは「王」としておきたい)とともに狩に出る。レモンダンは巨大な猪に襲われた王を救おうとするが、あろうことかレモンダンの槍が王にささり、王は絶命する。
○困りはてたレモンダンがひとり森をさまよっていると泉があり、そばに美しい3人の乙女(姉妹)がいる。3人の乙女はレモンダンに知恵をさずける。
○なかでも末の妹メリュジーヌにレモンダンは目と心を惹かれ、王を手厚く葬って新しい王となったあかつきには、もう一度この泉を訪ねなさいという彼女との約束をはたし、ふたりは結婚する。
○多くの子をもうけ(どの男子も一種の「奇形」なのだが)、ふたりは幸せに暮らすが、結婚のさいにメリュジーヌとかわした約束(誓い)があった。それは、土曜日の一日メリュジーヌは部屋にこもるので、けっして覗いたり、扉をあけてはならぬという約束である。
○しかし、あるとき、土曜日にメリュジーヌがレモンダンを部屋にいれないのは、不貞をはたらいているからだという「噂」を耳にして、嫉妬に狂ったレモンダンは剣を扉に突き刺し、あいた穴からなかをのぞき込む。
○そこにレモンダンが目にしたものは、水浴しているメリュジーヌの姿であった。これ以上に美しいものはなかったが、しかし彼女の下半身は蛇の尾であった。渦巻く水と水しぶきに銀色と紺碧色に輝く蛇身!
○メリュジーヌは見られたことに気づかなかったが、レモンダンは彼女を失うことを怖れ、見たことを告白し、涙ながらに許しを請う。メリュジーヌは、二度と同じ過ちを繰り返さず、けっして他言せずにふたりだけの「秘密」に留めておくのであればという条件で彼を許す。
○再度の誓いをまもり平穏な日々のままに時が経ち、ふたりは子どもたちの成長と出世(戦果)をたのしみにリュジニャンの城で暮らしている。ところがある日、レモンダン一家を不幸が襲う。戦士(騎士)にならず、ただひとり僧となった子が僧院の僧侶たちに惨殺されたという誤報をきいた兄弟のひとりが、怒りのあまり僧院を焼き払い僧侶を皆殺しにしたのだ。
○この報せをきいたレモンダンは嘆き悲しむが、この不幸はメリュジーヌが人間ではなく異界の生き物(蛇)であることが原因であると思い、怒りに狂い、理性を失う。レモンダンの嘆きと苦しみを和らげようとして、メリュジーヌは何人かの付き人とともに、レモンダンのところへやってくる。しかし、我をわすれたレモンダンは、皆の前で、「ああ蛇よ。おまえの血をひく者は、生きている間にけっして善をなすことはないのだ!」と大声でわめきちらし、メリュジーヌの秘密をあばいてしまう。
○レモンダンはすぐに後悔するが、もう取り返しがつかない。この言葉をきいたメリュジーヌは気を失って倒れる。そばにいたひとりの騎士が冷たい水で彼女の顔を何度も濡らし、メリュジーヌは意識を取り戻す。そして静かに悲しげにレモンダンに言う。「あなたの裏切り、あなたの過ち、あなたの嘘、あなたの冷酷さ、あなたの理性を失った言葉が、わたしを永遠の苦しみのなかに突き落としたのです。……」
○「ここを去る前にもうひとつ言っておきたいことがあるのです。百年後に生まれる人にもそのことを知っておいてもらいたいのです。彼らにこの話を必ず聞かせてほしいのです。リュジニャン城の城主がかわる年の三日前に、城の周りにわたしが浮かんでいる(飛んでいる)のが見えるでしょう。空に姿が見えないときには、地面の上に、少なくとも泉のほとりに姿をみせます。……」
○「優しいあなた、どうかわたしのために祈ってくださいね。わたしはあなたの命が続くかぎりあなたのことを忘れはしません。あなたが困難に直面した時には、わたしの助けと慰めを得ることでしょう。わたしはあなたのお役に立てるように気にかけています。でも不幸も受け入れなければなりません。もう二度と人間の女の姿でメリュジーヌを見ることはないでしょう。あなたのおそばに長く仕えた、あなたの心からの恋人メリュジーヌを」……
○「メリュジーヌは話し終えると、窓から飛び立ち、たちまち大きくて長い蛇に変身しました。それにはだれもがとても驚きました。蛇に姿を変えたこの妖精の尾は、銀色と紺碧に輝いていました。レモンダンは激しく嘆きました。メリュジーヌは三度城砦を旋回すると、その度に叫び声をあげました。それは驚くべき叫び声でした。とても不思議な、悲しく哀れを誘う叫び声でした」
(上昇し星になるメリュジーヌ? 天と地をつなぐ龍(立つ)、竹のナーガ(ヒンドゥー教の蛇神)? 上に伸びる竹は天地をつなぐ蛇? 七夕の願い事を書いた短冊を飾る葉竹も?)
■メリュジーヌを妖精(精霊)として、三つの作品(ミュトス)をつなぐ。あるいは、3つの「創作」をつなぐロゴスを探ることでメリュジーヌを召喚する。
そのことで、「水の宴(縁)」を神話(ミュトロギア)生成の場とする。
○「はじめに神話があった」というポール・ヴァレリーの言葉。
○アリストテレスの「知ることを欲する」の「知る」は「見る」とも訳せる。
○『形而上学』には、また、「哲学(フィロ・ソフィア=愛知)は驚く(不思議を感じる感性)ことからはじまる」という言葉もある。すなわち知ることは驚くことであり、それは見ることである。
○水(水面)は驚きを生むメディアであり、鏡。ナルキッソス。ミロワール(鏡)→メルヴェイユ(驚き、不思議)。鏡(水面)に移る自分。私とは誰か。「驚き」の根源。予兆としての顕現。
○「メリュジーヌという言葉は、必ず驚くべきことが起こるということを意味しているのです」(「メリュジーヌ伝説」p.57)
○「見る(知る)」ことの恐ろしさ(禁忌)。メドゥーサ。見ることによる喪失。オルフェウスとエウリデュケー。レモンダンとメリュジーヌ。禁を破り「見ようとする」画家。
○「……創作(ポイエーシス)を美事にするためには、神話(ミュトス)はいかに組み合わされなければならないか」(アリストテレス『詩学』)
○真実=自然(性)。創作=自然の模倣(ミメーシス)。人為(アート)によって自然(無意識)と一体化する試み。その限界。「自己の死」と引き替えの真実との出会い。
他者との出会い(導き)と別れ(犠牲)、再会(再生)への願い。再び巡り合うことの、予兆。
■メリュジーヌという神話から別個に造られた三者の作品とその関係を「読む」
○メリュジーヌは水の精霊であり、蛇の化身である。水と蛇は、自然の不可思議を象徴する「得たいの知れない」自然(の要素)である。ともに変容と循環のミュトス(神話素)である。(蛇は脱皮、つまり変容し、自らの尾を噛む蛇=ウロボロスは循環の象徴)
○芸術作品の見方(読み方)は、作者の意図を超えて多種多様であり、個々の見る者との視線の交差のうちに成立する。したがって、むろん、これも「ひとつの」隠喩としての読みにすぎない。三角の関係性のなかで読んでみると。
●配島さんの作品は、メリュジーヌとレモンダンの結婚(聖なる異類婚)の碑である。→異なるものの結合、創造の秘蹟。
●川村さんの作品は、己の「秘密」を人目に曝された(裸にされた)メリュジーヌが身を投じた窓。→水面、鏡、すなわち「こちら」と「あちら」との境界、別れの悲しみと再会への祈り。
●岡野さんの作品は、「洪水の後」つまり変容した(する)世界へ飛来したメリュジーヌの目によって眺めた景色である(水は変容すると同時に、変容させるものである)。→メリュジーヌの帰還。新たな地上の「王」との出会いの場「泉」をもとめて
水の「物質の三態」のように、三者の作品はそれぞれの関係のなかで変容しトグロを巻いた蛇のごとく循環する。「3」は面(閉じた世界)を構成する最小の単位である。宴は縁であり円である。

夜、11時半ころ帰宅。7月7日は妻の誕生日であり、8日との境目、0時少し前に生まれたという。


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