常滑で「配島庸二 展」を見て

 前回この欄でご案内した、配島庸二さんの個展を見るため、10日のオープニングに合わせて常滑に行ってきました。私にとってINAXライブミュージアムは2回目です。
 名古屋駅で待ち合わせをした友人と昼食をとってから、名鉄で常滑へ向かいました。常滑の駅からは暑さで滲む汗をぬぐいながら歩きましたが、ミュージアムに着くなり、ゆったりとした涼やかな空間が開けました。2年ほど前に来たときにも感じましたが、敷地内にブリコラージュ風とでもいえばよいか、さまざまな様式の展示棟が点在するこの空間のたたずまいには、さりげない開放感といったものが漂っていてほっとした心持ちになれます。
090514.jpg 配島さんの個展は「やきもの新感覚シリーズ」第76回にあたり、『「配島庸二 展」 ーグーテンベルク炭書・蜜蝋と塩ー 清らかな炭化のかたち』と題されたものです。会場は2つに分かれ、「焼畑考」と「海を孕む」というサブ・テーマのもとに展示が行われています。

 それにしても、これらの作品群について、どんな評言を口にすればよいのでしょう。別に、無理に言わなくともよいのですが、それでも何か感想めいたことの一言でも述べてみたくなるのが編集者としての困った性癖か!?
 
 配島さんの作品を前にしたとき、いつもある種の戸惑いといったものを感じ、意味のある言葉よりも先に「ウッ」と息をつまらせるか、あるいは「ホーッ」と息を吐き出すか、そんな反応しか「まずは」出てこないのは私だけでしょうか。いわゆる”通常”の美術作品のように「美しい!」とか「スゴイ!」とか「カワイイ!」とか、一言で印象を語ることの困難さを誰もが感じるはずです。どの言葉も当てはまるけど、どの言葉もちょっと違うというような。
 しかし、それらの紋切り型の形容詞で言い切れない面を感じるからこそ、視覚を通じて脳の言語野といったものが活性化され、私たちの感性や思考がうごめきはじめると言えるような気もします。つまり、ワンフレーズの言葉によって意識が固定されるのではなく、流動しはじめるのです。
 紋切り型を打破し、新しい時代の感性を切り開こうとするコンセプチュアルな現代美術が、多かれ少なかれそのような企図をもっているとしても、配島さんのクローンド・ビーナスから炭書の連作につながる流れは、その点をきわめて先鋭化しているようにも思います。
 その意味で、というのは作品に批評意識が含まれているという意味でですが、とくにこの「グーテンベルク炭書」と名付けられた作品群は、きわめて自己言及的かつ言語(論)的なものといえるのではないでしょうか。
 すなわち……。炭に焼かれ読むことを禁じられた本。しかも、そのほとんどは縄で縛られており、二重に開くことを禁じられた本。これらの本は、いうなれば「口を封じられて」います。しかし、だからこそ、饒舌なのだとも言えます。なぜか。
 禁じられているといっても、「かろうじて」本の形態を保ち、ソレが本の一種であることが感知される以上、私たちはその読めない本たちを前に、グーテンベルク以来の習性としてそこに何かを必死に読み取ろうとします。鍵をかけられ入ることや覗くことを禁じられたお伽話の「秘密の部屋」のように、封じられ、禁じられているからこそ、読みたいという欲求、覗きたいという欲望が高まる。しかし、読めない。では、どうなるか。
 それは自分のなかに、言葉を探ることへと思いを誘うのです。私たちは、この黒い箱(ブラックボックス)と化し、視覚的に文字を読むことを禁じられた本を前に、できることは”外側”から聞き耳をたてることです。それは自分の”内側”に言葉を探すことへとメカニカルに作用する。しかも、自分の意識のなかに既存の固定された視覚言語(文字)を見つけることはできません。あるとしたら文字以前の”音(声)”の流れとしての言語であり、それは一種の音楽であり、聴覚的なものです。意識はつねに流動しています。
 配島さんの「視覚作品」は抽象か具象かといった範疇を越えて、きわめて聴覚的であり、音楽的であると感じるのはそれゆえでしょう。難解なのではなく、捕まえにくいのです。あるいは、簡単に「わかりやすい」言葉に還元できないからこそ、作品としての「もうひとつの生」を生きはじめているといえるのではないでしょうか。
 高度にメタフォリックな「詩=うた」として、見事これらの炭書は別の次元へとトポロジカルに裏返っているのです。
「焼畑考」と「海を孕む」という本展での新作では、「自然」に対する儀礼性や物語(お伽話)性がさらに強まっているように感じられ、大いに想像力が刺激されますが、あまり急がず、きょうのところは作品と「私」との豊かな沈黙の対話に身をゆだねておきたいと思います。
 本展では、新しく「地層」(時空の堆積)といった言葉(概念)が私の意識に頭をもたげつつあったことだけを最後に述べて、これもひとつの部分的見方にすぎない私的「報告」とします。
 なにはともあれ、なんとも不思議な、これら配島さんの「本」を読んでみてください。これほど多様な読み方のできる本は、またとないでしょう。
 ちなみに、ブックオフでは買えませんよ(^^)。
090514-2.jpg追伸:この日、この個展を縁にお目にかかることのできた方々、いろいろお話をおうかがいできて特別に楽しく愉快な「常滑時間」を過ごすことができました。お礼を申し上げます。


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コメント

“常滑で「配島庸二 展」を見て” への5件のフィードバック

  1. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    私は石井さんほどには鋭い作品評は出来ませんが、その存在感に圧倒され二つのことを思い浮かべました。
    一つは火事で焼け出された万巻の蔵書で、これは今年が50回忌にあたる荷風の偏奇館が3月20日の東京大空襲で総て焼失したこと。
    それからもう一つは、焚書という愚かな歴史的行為で抹殺されて行った数々の書籍のことです。
    何か極めて即物的な反応ですが、これが今現在の気分なので 敢えて恥じを恐れず此処に記しておきます。
    2009・5・15

  2. 石井のアバター
    石井

    さっそくのコメント、うれしいです。逆にこのように素直な反応ができない私自身が恥ずかしくなります。
    でも、これも私見ですが、見る側の心にいろいろな化学反応を誘発するのが、この配島さんの炭書の炭書たるところだと思います。環境ばかりでなく、なにか自分のなかの過剰なもの、余分なもの吐き出させたうえで、吸い取り、浄化してくれる装置のようです。
    ところで、今回の個展に合うアンビエントな音楽はなにかな〜と、漠然と勝手に思ったのですが、坂本龍一の新譜『out of noise』がぴったりのような気がしますが、どうでしょうね。
    こういうふうに、想像の世界で遊ぶのも楽しいですね。

  3. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    先程書き漏らしたのですが、石井さま言うところの「地層」というイメージ/コトバは極めて示唆的なものと思います。
    それから背景としての音楽は残念ながら坂本龍一の最新曲は存じませんが、展覧会場では微かにベ−ト−ベンかシュ−ベルトのピアノが流れていたような、、、
    どちらにしても、クラシックでもモダンでもどちらでも良いと思いますが ピアノの静かめのソロが何かしらピッタリ合うようにも思います。

  4. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    最初に書いたコメントの訂正です
    基本的事実を間違って書いていました。
    それは東京大空襲の日付で昭和20年3月10日で、麻布市兵衞町の高台にあった家風の偏奇館も折からの強風に煽られた火の手から未明に全焼し 総ての蔵書が灰燼となったとのことです。

  5. naohnaohのアバター
    naohnaoh

    今回ははいじまさんの作品を拝見する機会に恵まれませんでしたが、石井さんの文章を読んで、あの作品群の内部に閉じ込められたエネルギーの一端を垣間見ました。
    活字文明、機械文明に対する批判の業火が、内にエネルギーを孕んだ揺るぎない炭書に昇華させたのでしょうか。