ハンマースホイ または、ある幽霊のまなざし

 小雨に煙る日曜日(16日)、上野の国立西洋美術館へ『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情』を見に行った(12月7日まで)。
 ハンマースホイという耳慣れない名をもつこの画家は、1864年にデンマークで生をうけ、1916年に没するまで生前はヨーロッパで高い評価を得ていたといわれる。日本ではほとんど知られていないが、「北欧のフェルメール」とも喩えられ、欧米を中心に再び脚光を浴びているらしい。
081119.jpg じつは私自身、「フェルメール展」に行ったおりに途中でみかけたそのポスターを見るまで、まったくといってよいほど、ハンマースホイの名も絵も知らなかった。しかし、その巨大なポスター(看板)に印刷された絵は、一目見ただけで人を惹きつける不思議な魅力があり、その静謐な絵の”たたずまい”とでもいうべき雰囲気は、未知であると同時にどこかなつかしい印象を周囲の環境に放っている。
 だからむろん「北欧のフェルメール」などという評価があることなどまったく知らなかったし、「フェルメール展」のさいにポスターを目にしたのもただの偶然。その落ち着いた構図と色彩から受ける「静かな詩情」のインパクトが忘れられず、再度この上野の森に足が向いたというわけである。
 たしかに、おもに室内を舞台とし、しかもガラス窓から入る光を取り入れた写実的な、いうなれば「写真のような」描写は、フェルメールを思わせるところがないではない。画題の多くは「女」を描いていることにも共通点がある。
 しかし、決定的に違うのは、その定まらない視線である。定まらないどころか、ハンマースホイの画中の人物(多くは妻のイーダ)の大部分は背をむけており、視線はおろかその顔の表情さえわからない。なかには、顏をこちらに向けているものもあるが、そのほとんどは無表情のままで、まなざしはこちら(画家)の視線とまじわることがない。画家がその場にいないか、いたとしてもまるで空気のような存在でしかないかのようだ。「写真のような」と書いたが、これはほとんど写真”そのもの”である。あるいは写真”以上”の写真である。
 また「女」といっても、たいていは黒い地味な服を着ていて、ベルギー生まれのシュルレアリスト、ルネ・マグリットの山高帽の紳士のように非人称化されている(筆致自体、マグリットを連想させるところがある)。そして全身から、どこか愛しくも儚い風情が漂ってくる。
 ハンマースホイの伝記的な事実はよく知らないが、当時は写真も映画も創世記を迎えていた時代であり、彼が暮らしていたコペンハーゲンという都市の環境も新しいメディアの洗礼を大いに受けていたにちがいない(ハンマースホイと写真や映画との影響関係を調べるとおもしろいと思うが、いまはその任にない)。彼がどの程度”方法として”写真を意識していたかは審らかではないが、少なくとも”意識として”作家人格や個人の心情をできるだけ無にし、無機的なレンズのようなモノに自分を透明化しようとしていたのではなかろうか。画面を満たす静謐感と適度な緊張感は、そのことに由来しているような気がする。


 人声や物音のしないその静かな室内空間は、家具や調度品がほとんどない、まるで引っ越しのために荷が運び出されたあとの部屋のようだ。色調もほとんどモノトーンと見まがうばかりに抑えられていて(最近の映画にもこの傾向があるのも興味深い)、いっさいの過剰さが排除された彼の作品は、空虚ではあるがけっして見る者の不安感をあおる居心地のわるいものではなく、むしろ反対に、いつまでも見ていたい落ち着きと安堵感があり、その部屋に空気として自分が”参加”している親密な感覚さえ覚えてくる。
 うまくいえないが、なにか人生の苦しく労の多かった時間が過ぎ去って、変化や動きが静まり、事が終ったあと、止まった時のなかで待機しているかのような、しかしもはやそれは永遠に訪れないかのような……。その空間に物静かにたたずむ女の後ろ姿を、存在を消去され、空気=気配と化した画家のまなざしがカメラのように無心に写し取った絵画—-。
 画家の視線が見る者の視線と一体である以上、つまり見る者が画家の視線に限定され拘束される以上、見る者は時空を超えたもう一人の画家である。私たちは画家とともに、絵の舞台である彼の自宅の部屋を覗いてまわることになる。
 彼の絵を見ることにともなう一種の安心感は、覗いていることをけっして対象から悟られないことにあるだろう。「覗く」というのはおかしな言い方かもしれない。じっさいそこには、通常はじめて他者の家に無断で入り込むことにともなう後ろめたさを感じずにすむからだ。部屋にいる人物は、見ている画家に気がついているのか。気がついているとしても、見られている女から伝わってくるのは、ごく親しい者、あるいはかつて知っていた亡き者への諦めと許しである。画家は「死」の側から妻を見ている? 画家=見る者である私たちは、透明人間または一個の幽霊として、その部屋部屋を徘徊しているかのようなのだ。
 最後に「そして、誰もいなくなった」、文字通りからっぽの部屋が残される。そこに描かれた人物さえ、いつのまにか消え去っているのである。
 ハンマースホイの絵には、白い扉が画面を大きく占める作品が多いが、禁止と許可、あちらとこちらを仕切る結界のようで印象深い。よく見ると取っ手(ノブ)の描かれていないドアがある作品があり、その部屋が「開かずの間」であり、作品自体がひとつの夢、あるいは現実に”似た”異空間であることを暗示する。ノブがないということは、鍵穴がないということでもあり、この意図的な省略は、扉を開けるのに鍵は不要であることを示している。禁じられた性的な欲望の隠喩として読み解くことも可能ではあろう。絵の前に立ったとき、欲望という鍵を捨て去ることをこの扉は私たちに命じているのかもしれない。
 しかし、だからこそであろう。ほとんどどの扉も大きく開かれており、私たちは画家とともに小さな風=魂となって部屋から部屋へ吹き抜けることを許されている。


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コメント

“ハンマースホイ または、ある幽霊のまなざし” への2件のフィードバック

  1. naohnaohのアバター
    naohnaoh

    北欧のフェルメールと呼ばれている人なんですか。
    私の鑑賞力が幼いせいか、フェルメール風の絵画にどうも関心が湧かないのです。
    技巧を凝らした素晴らしい絵画であることはわかります。
    フェルメールが心血を注いで描いたものでしょうが、今ひとつ心をうつものを感じないのです。
    よくわかりませんが、フェルメールのデッサン力は比類ないもののような気がします。
    デッサンの頂点のような絵画という印象を持っています。
    ピカソなど抽象画をものした人たちは、写実的なデッサン能力を高めて内部化したものを改めて自分の表現手法で吐き出して描いているという気がします。
    写実を超えた抽象に、作意(=アート?)を感じてしまうというのは鑑賞能力の乏しいゆえでしょうか。

  2. 石井のアバター
    石井

    私は作品を観賞(あまり使いたくない言葉ですが)するとき、できるだけ先入観をもたないようにし、事前の情報も忘れるようにしています。映画を見る前にプログラムを読まないのと同様ですが、「北欧のフェルメール」という評言はなにかで見て、たまたまフェルメール展も近くでやっていたので、その一種の偶然をおもしろく感じていました(「北欧」という言葉にも、じつは強く惹かれていました)。でも、そのことをあまり強調するつもりはありません。
    とくに見る側である私にとって技巧自体は、ある意味でどうでもよくて、「写真のような」と書きましたが、それは“現実”を写し取ったかのような技術の巧みさを称賛しているのではありません。極力、個人的な心情とか情念とかを抑えた描写であることを指しています。または、写真のように「一瞬のなかに永遠を見る」ような絵といえばよいか。うまく書けませんでしたが、写真/絵画という境を超えたところに見えてくる非人称のモノをとらえようとする眼。おそらく技巧としてはフェルメールのほうが圧倒的に優れていると思いますが、好き嫌いでいえば、私はハンマースホイのほうに惹かれます。
    ピカソを抽象画といってよいかどうかは疑問ですが、たしかに、何が具象で何が抽象かといった区分けはむずかしいことだと思います。それは何が現実で何が非現実かといった議論と同様で、写実といっても「作意」のまったくない写実はありえないように、要は「作為」をいかに排除し、そぎ落として、リアルというよりはリアリティを抽出するかが、おっしゃるように芸術家におけるひとつの作意=アート(人為)のあり方なのかもしれません。