フェルメール展で「ワイングラスを持つ娘」を見て

 事務所への出がけに、上野で途中下車して『フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち』を覗いてきた(東京都美術館、12月14日まで)。
フェルメール展 平日(木曜)の午前なのに、かなりの混雑で、作品を見る前からいささかうんざり気分が先に立ったが、駆け足ぎみに見てまわった。「どうせ混むんだから、そんな混雑のなかでフェルメールを見たってあまり意味ないんじゃない…?」という知り合いの美術史の先生の助言があったにもかかわらず、欧米の美術館を訪ね歩いて観賞する時間もお金もない当方からすれば、こういうチャンスは滅多にないのだから仕方ない。
 フェルメールは7作品が出展されていた。作品名をあげると「マルタとマリアの家のキリスト」「ディアナとニンフたち」「小路」「ワイングラスを持つ娘」「リュートを調弦する女」「ヴァージナルの前に座る若い女」、そして「手紙を書く婦人と召使い」。
 私にとって実物を見るのはすべてはじめてだったが、事前に何も調べずに行ったため、出会えるものと勝手に思い込んでいた「真珠の耳飾りの少女」を見ることができなかったのは残念(スカーレット・ヨハンソンが主演であの少女のモデル役を魅力たっぷりに演じていた映画『真珠の耳飾りの少女』をかつて面白く見ていただけに、当てが外れてちょっと落胆)。
 しかし、だからでもあろうか、逆に興味を惹かれたのは「ワイングラスを持つ娘」という絵。「真珠の耳飾りの少女」の少女に比べると、この「娘」はなんだかちょっと”いやな”顏をしている。ともにこちらを向いて絵を見る者を見つめ返しているが、「少女」のほうはずっと視線を交わしていたい気持ちになるのに(印刷物などで見るかぎり)、「娘」のほうは反対に目をそらしたくなる、というか目をふせたくなる。「娘」のほうがわずかに品を欠いた、どこかしら隠微な感じがするからであろうか。笑みをたたえた口元は、こちらの羞恥心を見越した意地の悪さのようなものまで漂わせているように見える。衣服の色、青(ターバン=少女)と赤(娘)の違いも影響しているかもしれない。
 (会場入口付近を撮った上の写真のポスター、向かって左が「ワイングラスを持つ娘」。右は「小路」)
 館内の人混みから抜け出して早く外に出たい気持ちが先走り、黒い人影の頭越しに視線をさっさと画布に走らせて出口近くまで来て、なんだか気になる感じがのこっていたので、もう一度動線を逆戻りしてこの絵の前に立ってみた。
 娘に寄り添うように上目づかいでワインをすすめている男、これがなんとも怪しいのだ。下心みえみえといった様子で、娘もそれを察知しており、「あらま、どうしましょう」とこちら見る側に問いかけているように見える。それは、私たち見る側の”女への視線”にまぎれこむ下心さえ察知し、了解済みのオトナとしての微妙な笑顔でこたえているかのようだ。視線をそらしたくなるのは、こちらの見ることに潜む欲望を見透かされている感じがするからではないか。
 そう考えると、この男(紳士)は私たち見る男の鏡像にも思えてくる。


 さらに興味を惹かれたのは、娘からの視線をそらし、画面の他の部分に目をやるとふたりの背後、紳士の近い側の隅にいるもう一人の男である。テーブルに頬杖をつき、なにやら陰鬱に黙考している様子。デューラーの版画で有名な「メランコリア」の内省的な天使を想起させる、憂鬱を絵に描いた(絵だから当たり前だけど)ようなポーズで影のなかに沈んでいる。その暗さは、娘の笑顔と対照的である。私にはこの作品に関する予備知識がまるでないのでわからないが、このふたりの男たちのモデルはじっさいにいたのだろうか(今回「図録」も買わなかった)。
 しかし、まあ、このさいはじっさいのモデルがいたかどうか、誰であったかはどうでもよい。肝心なのは、このふたりの男たちが、どうみても同一人物に見える点である。
 フェルメールは「光の画家」と呼ばれるが、光を描くということは当然のことながら影を描くことでもある。光と影、明と暗、躁と鬱、男と女、青(知性)と赤(情熱)、若さと老い、静と動、欲望と規律などなど、フェルメールの作品のなかでもこの作品は、人間のこころがもつ二面性とその葛藤を沈着に見つめたものとして際立っているように思う。ありきたりの言い方だが、タブローを満たすうっすらとした透明な光のなかに、心の微細なざわめきを静かに定着させている、ちょっと”毒”のまぎれんこんだ作品といって(多分)よい。
 こう書いてみると、ワインをすすめる紳士は、白雪姫に毒林檎をわたそうとする老婆のようにも見えてくるし、壁にかかった肖像画の人物は、法(規範)=父の監視の目線を暗い画面から娘と男に送っているような気がしてくるから面白いといえば面白い(あるいは紳士の第三の分身か)。暗くてほとんど見分けのつかないこの肖像画は、画面左の光が射し込んでくるステンドグラスと、そこに描かれたやはりなにか判別しにくい寓意画と対になっているのではないか。
 また、この娘の作ったような笑みは、明らかにこのワイングラスが”毒杯”であることを知っている証ではないか。
 作品全体が、背後でメランコリックに考え込む男の妄想を描いたものともいえる、と結論づけたくもなるが、それはヨーロッパ中世では、メランコリー(憂鬱症)は芸術家特有の病=性質(胆汁質、占星術でいう土星)であるのが周知のことだからだ。芸術家=フェルメールは、己の姿を思いにふけるこの隅っこの人物に投影しているのだろう。
門外漢でありながら(だからこそ?)、このようにお伽話風に読み取れる「ワイングラスを持つ娘」でありました、とさ。


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“フェルメール展で「ワイングラスを持つ娘」を見て” への1件のコメント

  1. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    「フェルメ−ル」に関しては卑見では、極めてその描かれた時代/場所との関連をみる必要のある画家だとおもいます。
    特に、オランダ/デルフトの風景とその時代の日常生活との関連か極めて密接な画家だとおもいます。
    私も集英社新書に在った「ヘルメ−ル全踏破の旅?」なんて面白いとも思ったけど、キットそんなことをしても本当のことは解らないような気がします。
    しかし 日本人は何故かヘルメ−ルが好きなようですがそのことのほうが、面白いと思います、、、