また、いつか、どこかで、きっと 、★

今日、うれしい便りとかなしい知らせのふたつがありました。
うれしい方は「亀甲館だより」の配島さんから、かなしい方は友人からのT.H.さんに関する連絡です。両方をいっしょに報告するつもりはなく、きょうはかなしく辛いことの方を記しておきたいと思いますが、しかし両者はいちど触れ合ったことがあり、いちどきりとはいえ、私が媒介した出会いです。個人の情を超えた「偶然」がはたらいているような気もします。そのことを、いまこの時に書ける範囲で書いてみます。


朝、青森にいらっしゃる配島さんからのひさしぶりのメールを見たあと、出社。午後、友人から携帯電話に連絡がありました。T.H.さんが亡くなったという電話でした。外ははげしい雨が降っています。
T.H.さんは、このHPに連載中の私のバリ島の物語『ウブドの光る雨』に、ランドスケープ・アーキテクチャーとして数行だけ紹介している人ですが、10年ほど前に出会ってから「仕事」を超えて人生や自然や夢をまっすぐに語り合うことのできる真の友人でした。バリ島へも2度いっしょに行く計画をしていましたが、1度目は爆弾テロのため、2度目は病気のため、ともにかないませんでした(この病気のために、それからほぼ1年後のきょうT.H.さんは亡くなりました)。しかし、『ウブドの光る雨』にも少し書きましたが、彼が行けなかった2度目のときは、T.H.さんだったらどう見て、どう言うだろうという思いが私の意識のなかにあって、旅行中ずっと「いっしょ」だったといってもよいほどです。だから『ウブドの光る雨』は、できたらT.H.さんにまっさきに読んでもらい、感想と意見をもらいたいと思ってもいました。それもかなわぬ願いとなりましたが、一章のエピグラフとして引用した「旅立つ君とかわした約束、心のなかにいつもある」というある歌詩の一節が、いま心のなかで明滅しています。このときは「旅立つ君」とはバリへ旅行する私自身のことのつもりでしたが。
そもそもこのときのバリ島旅行は、千葉県大原の亀甲館を訪問したときに、みなさんと楽しく歓談するうちに私のなかにみなさんとバリ島へ行き、バリというトポスで歓談のつづきをしたいという思いが強く沸き起こり、具体的に計画しようという気持ちになったことがきっかけになっています。亀甲館へは私はたしか3度目の訪問でしたが、この日は他にも配島さんにご紹介するために同行した何人かの友人たちといっしょでした。そのときの友人のうちのひとりに、T.H.さんがいたのです。
けっきょく、私にとっても、亀甲館がT.H.さんと最後に過ごした場(トポス)になりました(「空間」の記憶としてです。時間的にはこのあと、有楽町で一度会いました)。
T.H.さんはその後、しばらくして恵比須の病院に(再)入院、闘病生活をおくっていました。2〜3か月前からは親族以外は面会(見舞い)不可となっていました。
今月の4日(金)から私は三村さんとともに、亀甲館・配島さんとも縁を結んでいる伊藤さんの千葉県岩井の別宅へおじゃましていました。一泊した翌日の5日、東京・九段に戻ったその足で、私は恵比須ガーデンホールでのムーンライダースのコンサートへ行きました。私にとってほぼ20年ぶりに聴くムーンライダースのライヴでしたが、やはり20年前にもいっしょに行った妻と妹のふたりと恵比須の都立写真美術館で待ち合わせていました。ガーデンプレイスに沿って走る線路をはさんで、写真美術館へ向かう道から、向こうにTさんが入院しているはずの病院が見えます。T.H.さんは音楽も写真も好きでした。私はたくさん並んだ病院の窓を見上げて、そのどれかの窓の奥にTさんがいるはず、お見舞にいけるようになるのはいつだろうと思いながら、待ち合わせ場所へと歩いていきました。
バリや奄美には行けなかったけど、沖縄にはなんどかごいっしょしましたね。新庄にも。鎌倉「華蔵院」!。でも、……いろいろT.H.さんと共有した時間の記憶が押し寄せてきて、きょうはこれ以上書けません。
T.H.さん、さようなら。明後日の17日(17ってぼくの好きな数字です。タロットカードではエトワール、つまり星、希望の数ですものね)、長いお別れにいきます。でも、また、いつか、どこかで、きっと、★


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