音楽と社会、子守唄に関する雑感

やや遅れた報告ですが、4月22日(金)九段クラブにて「日本子守唄協会」の方々と伊藤さんの声かけに応じて集まった人々、計十数名による懇談会が開かれました。多分野の方々の意見交換をまじえながら、「日本子守唄協会」の活動の現況報告や理念の説明などをお聞きすることができました。


伊藤さんからお誘いを受けるまで、ぼく自身子守唄というものの存在自体をほとんど忘れていたというのが正直なところですが、現代社会の閉塞しギスギスとした人間(親子)関係を解きほぐすものとしての子守唄の役割の重要性に眼を開かれた思いがしました。はじめてお会いしたばかりで不用意な発言は避けますが、代表・西舘さんの子守唄にかける強く、やさしいまなざしとその真剣な姿勢にうたれたことは、率直な感想としてここで述べておきたいと思います。
日本子守唄協会のURL
http://www.komoriuta.jp
ところで、伊藤さんからこの懇談会の呼び掛けのメールをもらったとき、ぼくはちょうど日本における民族音楽の有数の研究者・紹介者であった故・小泉文夫さんの『音楽の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー)という本を読んでいたところでした。
去年10年ぶりにバリ島へ行き、ひさしぶりに現地でガムラン音楽や舞踊などに触れ、音楽と社会(共同体)の関係性をもう一度考えてみたいと思っていたところだったのです。トラヴェローグの会やアリストテレス研究会など、伊藤さんとのコラボレーションにおいてよく起こることなのですが、ぼくはこれも素通りできない「偶然の出会い」のひとつだと感じています。
『音楽の根源にあるもの』のなかに社会と音楽に関する、以下のような興味深い例が報告されていましたので、ここに紹介してぼくの雑感とします。
少し端折って書きますが、エスキモー(イヌイット、本の記述のままエスキモーと表記します)の歌、リズムに関する話題で、カリブー(へら鹿)を狩るエスキモーと鯨を捕るエスキモーのリズム感に違いがあるという分析を、この本のなかに採録された「自然民族と音楽の発展」という講演で小泉さんは報告しています。
一般にエスキモーは“音痴”といわれていますが、とくにカリブー・エスキモーはひとりで歌うときにはまだしも、何人かでいっしょに歌うとまったくばらばらなリズムで合唱になっていない。しかし、鯨エスキモーは複数の人々で歌っても調子をうまく合わせて歌うことができるというのです。なぜか? 
小泉さんの結論(仮説)によると、カリブー・エスキモーはカリブーの狩りをひとりで孤独におこない、捕鯨は集団で共同作業としておこなうという性格(ライフスタイル)にその原因をもとめています。この説は音楽および歌の発生・発展を考えるさい、とてもするどく面白い指摘だと思います。つまり共同体と音楽の形成はパラレルであるということです。逆からやや強引にいってしまうと、音楽の喪失は共同社会の衰退を招くということです。
現代日本を見ると、音楽は個人にあまねく流通し消費されています。しかし、真の意味で「私たちのうた」と呼べるものは、どれだけあるのでしょうか。数の問題をいうのではありません。音楽がどれほど流通し愛好する人口が増えたとしても、別々の個人の嗜好として消費されるばかり。コミュニティを成り立たせる“絆”としての「行為の音楽」は反比例して失われている、そんな気がします。
むろん、いうまでもなく、「うまい・へた」という相対的な評価や、“上”から強制される音楽(歌)のことをいっているのではありません。またカリブー・エスキモーと鯨エスキモーの社会的発展度の優劣を論じているのでもありません。しかしわれわれの社会は、このふたつのエスキモー社会から見た場合、鯨エスキモー型の共同社会とおそらく多くの共通性があるにも関わらず、「歌」が失われている。生活の次元から「みんなのうた」を取り戻していく必要があるということを、この「偶然の出会い」のなかで感じたという次第です。
バリ島のガムラン音楽はまさにそうですし、「子守唄」(童歌、労働歌も含めた“匿名性”の歌)を同じコミュニティ(親子、家族、地域・世代の共同体)のなかに位置付け、時代に則したかたちで保存・再生しようという活動の社会的意義もそこにあると思います。
ところで、「ソングライン」という美しい言葉はご存知ですか。


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