幸福という価値観の行方

 現在、不定期ではありますが、時間をみつけては本カフェ・ヌースの「カンガエドコロ」というコーナーに『幸福の行方』(荒木勝講演録)の連載をしています。人間にとってなにが幸福なのかといったことがなんとも見えづらいこの時代、幸福について語ろうとすることにはひじょうな困難と、ある種のむなしさがともないます。
 しかし、だからこそ、ときには真っ正面から幸福について語る試みが必要なのではないか。先日も秋葉原の「動機なき」無差別殺傷事件が起こり、さまざまなメディアをにぎわせていますが、TVや新聞などの報道を見ても、この事件をどう理解したらよいのか扱いに苦慮しているように感じられます。つまり従来のように誰が悪いのか、その犯人探しがうまくいかないからです。むろん犯行におよんだ本人が悪いことはいうまでもないことですが、なにが彼を犯行に駆り立てたのか一言で説明がつかない。加害者も別の面では被害者のひとりである、といった行き着く先のない堂々巡り。
 単純に、イライラがつのったあげく、暴力という手段でそれを発散したんだし、そのイライラは閉塞した社会が原因しているのだから社会が悪いといってみたところで、なにも変わらない。かえって同じ社会に生きる私たちのイライラがたまる一方です。
 犯行の動機となる理由はさまざまなことが複雑にもつれあっていて、そのもつれがうまくほどけず、丹念に配線し直すことに絶望し、一気にショートさせてしまう。それは根本的に、容疑者側も報道側も、そして私たちにも、認識と行動のあいだをつなぐ哲学(思考)、準拠すべき「幸福論」が欠落していることに根源的な理由があるような気がします。幸福「論」とまではいわずも、なにが幸福なのかといった幸福「観」の霧散。せいぜいが「お金」といった拠り所しか見出せない、幸福という価値観の貧困化。価値観の多様化どころか、価値という概念の喪失。
 むろん、答えはそう簡単にみつかるものではありません。焦りは短絡にむすびつく。『幸福の行方』は、アリストテレスの哲学を通して幸福とはなにか、その問いの立て方と、考え方の道筋といったものを、できるだけ平易に私たち自身の言葉で探ろうとするささやかな試みの一端です。
 アリストテレスと現代研究会のメンバーからの投稿もいくつかあります。上のメニュー・バーの「カンガエドコロ」をクリックのうえ、1人でも2人でも多くの方に読んでいただければうれしいです。


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“幸福という価値観の行方” への1件のコメント

  1. 哲学はなぜ間違うのか?のアバター

    「主語‐述語」は基本

    文法は、いくつかの語を一列に連結して、「XXが○○をする」という形に並べる。これ

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