『イトウの恋』と『見ることの塩』の旅

イトウの恋

 わたしは本屋が好きです。ネットで本を購入する場合と異なり、街の本屋さんには「偶然の出会い」の余地がまだ遺っているからです。
 先日も、ある本とのそんな出会いがありました。


 中島京子の『イトウの恋』(講談社)というのがそれです。たまに、まったく知らない作家のものを読んでみたい気分になることがあるものですが、「アリストテレスと現代研究会」(アリ研)関連の哲学の本を探しに本屋へいったときが、ちょうどそんな気分でした。そんなときは、だいたいが「理屈」に疲れているときで、だから理論書・思想書の類いよりは小説なんかが読みたくなります。
 書店内をブラブラ歩きながら棚に並んだ背表紙のタイトルをそれとなくながめていると、まず「イトウ」という文字に目がとまりました。ワインレッドの地にスミの文字がのったものですから、けっして目立っていたというのではありません。アリ研のメンバーでもあり、畏敬する友人に伊藤という名の人がいるのと、「イトウ」とかたかなで表記されていた点に「ン?」と、気をひかれたからなのでしょう。手にとってパラパラとめくってみたら、『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー)などで有名なあのイザベラ・バードへのイトウ(伊藤亀吉)という日本人通訳の恋ごごろを描いた小説であるらしいことがわかり、そういえば伊藤さんもイザベラ・バードのことをどこかで語っていたことも思い出し、サイフに余裕がないなか、アリ研関連の本はやめて、この『イトウの恋』を買ってしまったというわけです。
 こういう出会いには、いらぬ先入観や期待などないだけに、だいたいは「当たり」が多い。さっそく帰りの電車のなかで読みはじめましたが、まず、文章がいい! 読み手に擦り寄るでもない、突き放すでもない。偉そうに力まず、かといって今風にスカスカでもない文体とでもいえばよいか。日本の良質な女流作家の伝統にも連なるような、知的だけど頭でっかちでなく、かといって「子宮で書く」みたいなベトベトした書き方でもない、感性を通した知性、知性を通過した感性の表出であるような、旅を書くことと書くことで旅するような…。いわゆる力作、大傑作というのではないけど、久しぶりに「佳作」というものの良き佳さに触れているという清清しい思いを持続したまま、読み終わりました。

 ちなみに、この巷間の「盆休み」に同時に読んでいる本に四方田犬彦『見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行』(作品社)があります。この大部な本の数十ページを残し、まだ読了していませんが、これはすばらしい! パレスチナ、セルビアをとりまく厳しく悲惨な政治情勢、その内容に関する不用意な評言はここでは避けますが、一旅行者の視点から、旅すること=見ること=書くことを実践する作者のスタンスには押し付けがましさゆえの「嘘」がなく、きわめて倫理的で心をうちます。安易にわかったような「結論」に導こうとはしない、プロセスを綴っていく一行一行に静かに感動します。
 この本にも出てくるエミール・クストリツァの映画『ライフ・イズ・ミラクル』を、これも偶然なのですが、数日前にレンタル・ビデオ(DVD)で見たことを付記しておきます。見たあとに読んだ『見ることの塩』のあるページに、「…この作品は、わたしの周囲では賛否両論を呼んでいた。…」とあり、その両論をいくつかが紹介されていますが、わたし自身の感想としては「悲惨極まりない現実を往年のハリウッドを思わせるメロドラマに仕立て上げた手腕を褒め称える者…」に近いと、いまは取りあえず言っておきます。音楽も好きです。

 片や氷砂糖のように透明で甘く儚いフィクション、片や岩塩を瞳に擦り込むような過酷きわまりない異国の社会情勢のルポであるドキュメンタリー。一見まったくかけ離れている両作に共通性を感じてしまうのは、ともに、旅という「未完」性が夢と実際、時間と空間、知性と感性を通底し、本の外のわたしたちが生きている現実の旅へとつながっているからでしょうか。


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