『長江哀歌』あるいは破壊と再生

長江哀歌
 ▲『長江哀歌』のプログラム

『長江哀歌(エレジー)』という映画を見ました。素晴らしい作品でしたので、映画は久方ぶりの、本欄で紹介します。
 18日午後、広尾にある写真家・管(すが)洋志さんの事務所を訪ねました。管さんは、ご存知のかたもあるかと思いますが、「生きている」アジア(とくに東南アジア、中国、インド)を撮らせたら右に出る人はいないカメラマンです。Ars誌2号(「アンコールワットと水の夢」というタイトルで、管さんの写真・文を掲載した)のことや11月の中旬から開かれる管さんの個展『奄美 シマに生きて』の話などをしたあと、日比谷線広尾駅から地下鉄に乗り帰路につきましたが、車内で「次は日比谷…」というアナウンスを耳にして、突然にわかに映画を見たくなり、飛び降りました。
 何を見たいというあてもなかったのですが、いまならどれか最終回の上映時間に間に合うだろうという思いからでした。


 地上に出て日比谷シネ・シャンテの前までいったら、以前予告編を見て興味を惹かれていた『長江哀歌』の上映5分前。「よしっ!」とばかりに地下の上映館に潜り込みました(同じビル内で、『大統領暗殺』がかかっていて一瞬迷いましたが)。
 この映画は、例の長江・三峡ダム開発にまつわる「破壊(と再生)」を主題にしていますが、人物の描き方と映像の肌合いがとにかく圧倒的に素晴らしい! 物言わぬ「静物(STILL LIFE)」が、これほどむき出しのかたちで語りかけてくる作品はほとんど希有といってよいのではないか。
 中国の「闇社会(黒社会)」が大いに関係していることが背景に感じとれるのですが、あくまで寡黙に「庶民」の目を通して、沈むべく(廃虚となりゆく)定められたある町(奉節)の表層を深く(矛盾した言い方だけど)えぐり、山西省から人探しにやってきた主人公の男女ふたりの「往生際のよさ」(ひとつの決断)を淡々と静かに描いていて、それゆえになんともいえぬ感動が胸のうちに水位を増してきます。
 とくに(あまり「解説」しないほうがよいけど)UFOが唐突に画面を横切るあたりから、これは「泣かせる」ことで安易な「開放」(カタルシス)を意図しない作品であることが了解されてきて、なつかしくも新しい不可思議な「現実」に私たちも直面しているかのような、「痙攣的な美」とでもいってみたい映像(音響・音楽も)に心が震えてきます。
 監督は賈樟柯(ジャ・ジャンクー)。まだ30代といいますが、まさに「若き巨匠」と呼んでいい堂々たる作品です。シュールにリアルです。それこそ、タルコフスキーやアンゲロプロスやホウ・シャオシェンなどと比べてみたくなるほどです。
 烟(たばこ)、酒、茶、糖(あめ)という「章立て」になっており、どれもが(分割できないものを)「分かち合う」ものであるだけに、ある時代、ある社会、ある共同体、そして、ある人々との出会いと別れの儀式のための言葉=小道具としてとても効いていました。
 いまだにぼくは、この映画との一種の「偶然の出会い」(見ようと意図して見に行ったわけではないので)がもたらした感動の余韻のなかにいます。この映画について語りたいことは、まだまだたくさんあるような気がします。しかし、私たちの「現実」とまちがいなく連続しているこの作品を、思いつきの評言として語ることで閉じてははならない。いまは、おそらく終映間近のこの映画を走ってでも見に行くべしとのみ言うにとどめておきたいと思います。


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