「水」と『ナジャ』と配島さんと

 きのう、六本木に久しぶりに行きました。地下鉄「大江戸線」の六本木駅を降り、7番出口から地上に出て、誕生まもない新ミュージアムのひとつ21-21 DESIGN SIGHTへと向かいました。一瞬、見知らぬ町かと錯覚しそうなくらいに様変わりした町のなかを、いささか戸惑いながら、「水」を求めて。
 本サイト「カフェ・ヌース」にも投稿いただいている現代美術家の配島庸二(配の字は正しくは草冠が付きます)さんと、初の21-21 DESIGN SIGHT詣です。


 配島さんとは、10月4日は夕食でもごいっしょしながら歓談することに前から決めていました。というのも、このところアンドレ・ブルトンの『ナジャ』を題材に、ふたりで感想や意見を述べ合うということをときどきしていて、この10月4日はちょうど、ブルトンとナジャがパリで出会った日にあたるので、『ナジャ』という書物を端緒に、なにかの「はじまり」といった日にしようと話していたからです。
 「水」を求めてと書きましたが、この4日は21-21 DESIGN SIGHTの第2回企画展「WATER[水]」の「記者発表会/内覧会」の日にあたっていました。「水」に呼ばれていたわけです。配島さんとのランデヴーの場所は決めていなかったので、ナジャは象徴的には水とも言えるし、最近いっしょにお仕事させていただいたArs誌2号(石田財団発行)は特集タイトルが「水の芸」だし、配島さんもノッテくれたので、これも何かの縁かとこじつけて、案内状を手に「WATER[水]」展に行ってみることにしたのでした。

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 「WATER[水]」展に関しては、あまり言うことはありません。とても洗練された空間構成(21-21 DESIGN SIGHTの建物は安藤忠雄)で、その水のような透明感と白を基調としたデザイン・センスは「さすが」だし、興味あるかたはぜひ見に行っていただきたいと思いますが、全体としてなんだか頭に浮かぶ「既知」をなぞっているかのような、「演出」が先走っているような、そんな第一印象でした。配島さんも同様だったようですが、少なくとも、期待や予想からはずれた(つまり「自由」な、そしてものの見方が変わるような)「驚き」「ショック」は私には感じられませんでした。もちろんこれは善し悪しの評価や批評ではなく、ないものねだりの印象にすぎませんが。つまり、少なくとも私には、それ以上の、デザイン意図を超えた発見ができるまでには至らなかったとでもいえばよいでしょうか。水は透過すると同時に反射させる媒体でもあるので、見る人の視線をさまざまに印象として反映させるものではあるにしても。
 さて、もうひとつの水(むろん、ビール! 暑かったし…)を求めて、会場を早めに引き上げましたが、なんだかよそよそしい感じの六本木の町を歩き回るのも疲れるし、われわれふたりは、待ち合わせ場所だった飯田橋駅に取りあえず戻ることにしました。帰りは乃木坂駅から千代田線に乗り、途中で南北線に乗り替えることにしました(地下鉄というと、この日はやはりパリの地下鉄を思い出しました)。
 神楽坂の通りを、『ナジャ』の話をするのは、パリとはいわずもいまの六本木よりこの町のほうが似合っていて正解だな、などと思いながら歩きました。なんとなくですが、この夜の神楽坂は、『ナジャ』のキーワードのひとつである偶然の「出会い」が起こりそうな、そんな磁力が「まだ」残っているような、街路の魅力が通りにあぶり出ているような気がする町でした。
 「出会い」とか「匿名性」とか「オートマティスム」とか「負い目」とか「水と火(炭)」とか、『ナジャ』からつながるわれわれの物語の断片を語り合いながら、来年秋ごろはいっしょにパリを歩きたいですねと、来るべきランデヴーの約束とはいえない約束をかわして…。
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 私たちは、会話を読みかけの本のページのように閉じたあと、「五十番」でお土産に肉まんを買って、それぞれ待つ人のいる家路につきました。


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