前回の投稿から早くも1か月以上が過ぎてしまいました。
この間、事務所の引っ越しなどがあり、なにかとドタバタしていましたが、ようやっと少し落ち着いてきました。
新事務所「エディション・ヌース」の開設にあたり、多くの方々から暖かい励まし、ご支援の言葉をいただきました。お名前はあえて記しませんが、心からお礼を申しあげます。
カフェ・ヌースも、少しずつですが充実をはかっていきます。
きのう「アリストテレスと現代文化研究会」のコンテンツを3本アップいたしました。これは、申し訳ありませんが、個人情報の流出等を防ぐ意味をふくめ、会員限定のページとして作ってあります。
しかし、近く「生きている哲学」のための開かれた議論の場(かりに「自由フォーラム」としておきますが)をスタートする予定。楽しみにお待ち下さい。
ところで、哲学といえば…
カフェ・ヌースは現在「感性と知性を旅するウェブ・マガジン」と、とりあえず銘打っていますが、もっと適格な言い方がないものか、感性と知性をつなぐ言葉はないかなどと思っていたら(いまでも思っていますが)、最近読んだ柄谷行人の『世界共和国へ–資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)のなかに、ああそうか!と膝を打ちたくなるセンテンスがありました。
「想像力の主題化」という小見出しの次のパラグラフを引用します。
さらに注目すべきことは、18世紀後半のヨーロッパに、アンダーソンがいうような「想像された共同体」が形成されただけでなく、まさに「想像力」そのもそが特殊な意義をおびて出現したということです。ネーションが成立するのと、哲学史において想像力が、感性と悟性(知性)を媒介するような地位におかれるのとは同じ時期です。それまでの哲学史において、感性はいつも知性の下位におかれていましたが、想像力も、知覚の擬似的な再現能力、あるいは恣意的な空想力として低く見られていました。ところが、この時期はじめて、カントが想像力を、感性と知性を媒介するもの、あるいは知性を先取りする創造的能力として見いだしたのです。
そう、ソウ、想! 想像力。
コメント
“哲学と想像力” への1件のコメント
アンダーソンのネーション成立との関係での想像力概念とは、そのような無規定の想像力だったでしょうか?交通関係(=人の行き来、情報の発達)というもの(実体)に媒介されたそれであると、私は理解していましたが。
(2006 06/14 09:12)