『硫黄島からの手紙』とアポリア

 以下は、アリストテレスと現代研究会(通称アリ研)のメーリング・リストにポストした私のメールに、多少の修正・加筆をほどこしたものです。
 12月14日付け朝日新聞の夕刊に「思想の言葉で読む21世紀論」が掲載されていました。そこで取り上げられていた言葉が「アポリア」です。お読みになった人もいると思いますが、記事タイトルは「思考を放棄して袋小路に」。ウォーラーステインや中山元などの言葉をあげながら現代文明が深刻なアポリア(袋小路)に入り込んでいることが指摘されています。記事の内容にとくに目新しいものはありません。しかし、記事に引かれている「人間を全体として考えるのではなく、心や器官などの一部分だけを取り上げて問題にする傾向が強まっている。人間の断片化や細分化が進んでいるのです」という臨床心理学者からの発言などを見るにつけ、先日のミニアリ研での、部分的正義(知慮)と全体的正義(知慮)に関する荒木教授の講義内容との切実な関連性を感じてしまいます。


 記事のなかで「哲学や思考の無力が実感され、社会の中に一種の思考の放棄ともいえる現象が広がっている」と中山氏も語っていますが、とても現実とは思えないような(思いたくないような)、目をつむり耳をふさぎたくなるような悲惨・陰惨な事件の頻発や社会情勢の大きな変動のなかで、否が応でも感性は鈍るいっぽう。その感性の閉鎖が思考を奪うという悪循環に陥りつつあることを、まずは強く自覚しておかねばならないでしょう。このメールは、ですから、自分自身に言い聞かせているようなものですが、少なくともアリ研は感性を開き思考を駆動させる動因となる場であらねばならないと、再確認する思いです。
 なにやらきょうは構えた”固い”書き方をしていますが、それはこの切り抜いた新聞記事のちょうど裏面に、たまたま『硫黄島からの手紙』の映画評が出ていたこととも関係があります。つまり、いまぼくは、この映画を見たあとのシリアスな深い余韻のなかにいるのです。評者はぼくも信を置いている山根貞男。
 意識が一種の「フロー(没入)状態」に入ってしまっているようなので(?)、アリ研「映画担当者」(?)として、この勢いで以下に少し感想を報告します。

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 ▲『硫黄島からの手紙』のプログラム

 かつて『ミリオンダラー・ベイビー』をアリ研ML上で取り上げ推奨しましたが、なぜクリント・イーストウッドを推奨したのかが、自分でもより強くわかったような気がします。クリントの近年の作、『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』、そして今度の2部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』それぞれに通底する主題は「正義」だと、ますますぼくには思えてきたからです。アリストテレス的にいえば多分、正義に対する「直知」、そしてそれゆえの現実との葛藤—-。
 一瞬も弛緩することのない乾いた映像、これまでの映画史をふまえたうえでの革新的職人技等への評価は別にしても、彼ほど現代における正義の不在を鮮烈に問題提起している映画作家は希有なのではないでしょうか。アポリアの解決を脅迫的に煽り、見せかけの性急さで実行するのではなく、アポリアをアポリアとして、その「姿」を観客にすり寄る身振り抜きに自覚させる—-。
 感動という言葉がふさわしいのかどうか自分でもわからないまま、見ていて次から次に涙がこみあげてきました。まあ最近は、歳のせいか涙腺がゆるみやすくなっていることも確かだけど、山根さんも書いていますが、この涙は「感傷として流されず、悲しみを別の感情へと向かわせる」涙です。その悲しみの向かうさきは「(戦争を)許せないという怒り」であると山根さんはこの記事をむすんでいます。
 全編、登場するのはほとんど日本人俳優ばかり、しかも日本語によるこの映画が一アメリカ人の手によって撮られたこと自体への驚きもさることながら(しかし、だからこそか)、(利己的な自国愛ではない)愛国心をけっして否定しているのではないことが鮮明であり、凡百の実録映画、あるいは好戦・反戦映画と一線を画す、これまでにない「日本人を描いた外国映画」の傑作として見る者の感性を開き、心を深く揺さぶることに成功しているのだと思います。それこそ、本MLでもこのところのテーマともなっている芸術ー技術論における、自己目的的な、しかし自己満足に終わらない”創造”のひとつの好例がここにあるのではないでしょうか。クリントが撮っているというよりか、何かがクリントを「通して」作らせているとでも言ったらよいか。
 日本人の配役も、それぞれがとてもよかったです。そして、ほとんどモノトーンと見間違うようなクールな映像! 静謐な美しさを湛えたストイックな音楽もいい! …いつものように「褒めすぎ」といわれるかもしれませんが、編集者としては褒めるときは徹底して褒めるというのが主義ですので(?)。
 観客層は50歳以上のひとたちが多く、老夫婦のカップルもけっこう見かけました。なかには中学生くらいのこども連れもいましたが、やはりアリ研の議題でもある「教育問題」との関連から、こういう映画こそ悩める若い人たちはどう見るのか感想を聞いてみたい思いに駆られます。いや感想は無理に言わずともよいので、とにかく見てみてほしい。そのためなら、学校や会社をさぼってもいい! 「いじめ」のモヤモヤなんかふっ飛ぶかもしれないよ。ほんの一時のことかもしれないけど、ね。でも、それでいい。
 細かな史実・考証のあら探しよりも、極限的アポリア状態におかれた”人間”と、人間であるがゆえの心の葛藤を見てほしい。これは、単にある特定の時代の「犯人探し」を求める凡庸な善悪・正邪の審問映画ではありません。まぎれもなく「現代(いま)」の”われわれ”の決断と逡巡を描いた映画です。その「ためらい」は見ていて身体が震えるほどの実感をともなっています(こんな言い方は、最近読んだ内田樹の『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』の影響かもしれませんが、じっさい両者の思索、表現姿勢には、ある種の共通性を感じます)。
 この映画には、理不尽ゆえに怒りへと向かう涙がある。けれど、同時に、その怒りは、人間が「ある」ことに対する慈しみと肯定のまなざしに支えられているような気がします。
【追記】
 この前の休日(『硫黄島からの手紙』を見た翌日)に課題図書の一冊マキャベッリの『君主論』を買いに書店へ行ったのですが、同じ中公クラシックスで折口信夫の『古代研究1(祭りの発生)』の方に手が伸びてしまいました(アリストテレスのいう能動知性と受動知性は、折口の類化性能と別化性能という知性の二つのタイプに相似しているような気がしています)。
 その夜、寝床でさっそく読みはじめたら、編者の「まえがき」で、折口の養子で長年にわたって折口の世話をしていた藤井春洋が、硫黄島で戦死していたことをはじめて知りました。折口が死ぬまで彼の死に方に心傷めていたことや、以前、硫黄島で手紙などが発掘されたときに、春洋の書類や写真も発見されたことが述べてあり、ちょっとしたこのシンクロニシティに、しばし感無量。
 森博嗣のミステリーに登場する犀川助教授のように、たまらなく煙草が吸いたくなり、本を閉じ寝床から這い出して、キッチンで一服した次第となりました。


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“『硫黄島からの手紙』とアポリア” への2件のフィードバック

  1. 水酸化ナトリウムのアバター
    水酸化ナトリウム

    映画は観ていないのでストーリーはわかりませんが、硫黄島に行った時の強烈な印象を思い出しました。米国にとっては、2万8696人の戦死者を出した太平洋戦争最大の激戦地。日本人は2万129柱が眠っています。自分の歩いている地面の下に5万人の命が堆積していると実感した時、足の裏が切れそうな心の痛みを感じました。硫黄島は火山島で湧き水はありません。天水を貯めるしか方法はありません。室温43度を超える野戦壕、病院壕の中で、近い死を自覚しながら兵士は何を考えていたのか。米軍の火炎放射器、爆薬に攻められ、手榴弾で自決した兵士の骨が、壕の壁に食い込んだままになっていました。乾燥味噌と右から書かれた木箱には、中味が入ったままでした。水が無い状況では口にすることもできなかったのでしょう。飯盒、ヘルメット、壊れためがね、本の切れ端などが、地中に埋もれかけていました。米軍の夜間訓練を支援するためだけに駐留している師団司令に、こうした戦争遺産をどうしてきちんと保存しないのかと問いただしました。硫黄島のそうした遺産は厚生労働省管轄で、彼らにそんな理解はないという情けない回答でした。十年ほど前のことですので、今は改善されているかもしれません。入間基地からの日帰り視察でしたが、数日間思い出すたびに涙が流れました。そして、海兵出身だった父が言っていた「民族を守るためならば、命を捧げても悔いはないと思っていた」という言葉を反芻しました。
    (2006 12/21 15:18)

  2. 石井のアバター

    コメントありがとうございます。水酸化ナトリウムさんのような方が、この映画を見たらどのような感想を持つだろうかという思いが、この記事を書いている間、ずっと頭の隅にありました。むろんこれは映画ですから、現実そのもの再現を求めることには無理がある。しかし、ナトリウムさんのように、じっさいに硫黄島に行ったことのあるかたからのコメントを読むと、身が引き締まり緊張すると同時に、逆に再度、映画のシーンが目の前に浮かんできます。オール・ロケではなかったうえ、硫黄島での撮影はごく一部であることが明らかにされています。いかにもセット撮影っぽいシーンもいくつかあります。しかし、この映画の場合、それでいい(それがいい)ように思います。クリント・イーストウッドは、映画を撮る前に遺族の方々にできるだけ多く面談したようです。少なくとも彼は“礼節”をわきまえている人物として信のおける監督・プロデューサーだと思います。以前、日本のテレビ・インタヴューに彼が応じている番組を見たとき、全身から落ち着きといった言葉では足りない、“静けさ”のような気が漂っていて、この人は信頼できると感じた覚えがあります。だからこそ、硫黄島でロケ・ハンをした彼は、なんともいえない“気配”に圧倒され、この島で戦闘シーンや洞窟での場面を撮ることはできないと、硫黄島での大部分のロケ撮影を断念したというエピソードは、私たちの胸にも説得力をもってせまってきます。クリント・イーストウッドは作り物である映画の虚構性を自覚しているからこそ、現実を知らない観客の目にも、ある種の普遍的なリアリティを感得せしめることに成功しているのではないでしょうか。
    (2006 12/22 17:08)

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