以下は、本ウェブ・サイト『カフェ・ヌース』に掲載されている「グーテンベルクの塩竈焼き」への返歌、私的炭書論のための草稿です。
…その結果、朝になって私たちにのこされたものといえば、広場の中央でわずかな夜露をぴちゃぴちゃすすっているあの歌だけだった、「接吻はいともすみやかに忘れられる」。
『溶ける魚』(アンドレ・ブルトン、巖谷國士訳)より
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配島庸二さんのアートワーク、たとえば「クローンド・ヴィーナス」にしろこの「炭書」にしろ、それに向き合った私たちは、いつもある戸惑いの前に立たされることになる。私たちは、いったい「そこ」に何を見ればいいのか。
そもそもからして、これらは「作品」なのか。つまり作品としてまとまり「完結」されているのかという意味でだが、どれもが「まだ」途上にある感じ、一時休憩が終わったところで、新たな出発を待っている状態とでもいうか。炭書などからは、発車を待つ機関車といったイメージも喚起される。
配島さんの「美術作品」たちは、一見まるで異なった外観や相貌をまとっている場合でも、そのどれにも共通していることは、どこにもまだ帰り着いてはいないといった感じの、不安定なその途上感、言い換えればその流動感にある。しかし、いうまでもないが、じっさいに動くオブジェ(あるいは、いわゆるキネティック・アート)などとは根本的にことなる、静止しつつ動いている、もしくは動きつつ止まっているような、なんとも妙な「痙攣的な美」とでもいってみたくなる作品である。
しかも、その「作品(作業)」は、たいていは群体あるいはセリー(連続)状をなし、複数性(と無名性)を身上としているようにも思えるので、なおさらである。流れと複数性を、単体としても群体としても身につけたまま、「いま」という瞬間に何かを「いったん」凝結させようとする試み。作品というよりか、実験装置といったものに近いのかもしれない。とくに「炭書」と名付けられたモノたちは、その黒い筐体状の形態からして、なおさら何らかの未知の機能を具えた不思議な箱=装置のように私には見えてしまう。しかも、炭=死を連想するせいか、なにやら亡霊あるいは廃虚めいた感じもそこに漂ってはいないだろうか。
炭書の連作のひとつが「グーテンベルクの塩竈焼き」と題されているように、また配島さん自身が報告文のなかで「解説」を加えているように、この炭書は本という活字メディア、つまり文字という視覚メディアへの「喪の儀礼」、これを生みだした「亡き父(グーテンベルク)」への捧げ物(オマージュ)ということでもあるらしい。活字メディアといっても、電子メディアのこの時代に活字をつかって文字を組み、活版印刷をする本はほとんどない。活字という言葉自体がすでに比喩、もしくは象徴でしかないことは考慮しておく必要があるとしてもである。
いや、だからこそかもしれない。二重の喪がここにはあるような気がする。つまり活字に対する喪、そしてじっさいの活字であろうとなかろうと(写植、さらにはデジタル・フォントであろうと)それが印刷された「紙」というメディア(媒体)への喪。
「火葬」され(荼毘にふされ)炭と化した、開くことを禁じられたこれらの書物は、ページをめくることも、文字を読むことも、もはやできない。しかし、ネット上の電子情報とはちがって完全にデリートされることなく、その痕跡が刻まれた何かの遺物=オブジェ、あるいは元素にまで還元されたモノとして、現在とは別の空間あるいは時間に所属しているかのようだ。
これは、開けない本として、頁が重なるように何層にも記憶が、そして記憶の記憶が閉じこめられた箱なのだ。
記憶を「時間」と言い換えてみよう。炭書には、ある種の亡霊のような時間性をおびたものとして現象している観がある。「いま、ここ」にあるというよりは、かつてあった、やがてあるものの痕跡・予兆、要するに炭書は亡霊の時を刻んでいるように見えるのだ。いま、ここにない「時」を、つまり見ることよりも聴くことを私たちに誘いかけているオーディオ装置のような刻の筺。アナクロニズム(時代錯誤)ならぬアナクロニー(錯時性)、すなわち過去と現在そして未来が多様に折り畳まれた「時のコラージュ」とでもいっておこうか。
ここにあるのは読書の時間ではなく、「ラヂオの時間」なのである。「いま、ここ」での価値しか認めようとしない現代の視覚偏重消費文明への批評を聴き取ることももちろん自由であるし、チューニング次第で、炭書は多種多様な電波(時の波)をとらえることができる作品=装置である。しかし、どうやら、取りあえずは大気=自然環境に充満している見えない元素のブラウン運動を整序し共振するように、この炭書は初期設定の周波数を合わせてあるようだ。というか、作者=配島さんの当初の人為的意図を超えて、両者の波長が偶然に合ってしまったらしい。自然とのオートマティックなコラボレーションが実現し、幸福な贈与関係がここに成立したのである。
そもそも、炭書を作る調理の方法、「隠し味」としては姥捨て山の口承伝説がヒントとしてあったと配島さんは語っている。本を窯で焼くに際して、書物のかたちをくずれにくくするために、息子に背負われいったんは登った死の山から生還(再生でもあるだろう)した老婆の知恵として(この場合は本ではなく縄に塩を塗るのだが)、本を「塩漬け」してから焼いたのである。それが「塩竈焼き」の見立てともつながったわけだ。忘れられつつある語り(聴覚言語)が、視覚言語である活字=本を、逆説的に救ったといってもいいかもしれない。
昔むかし、語りは歌であり、歌は呪文でもあった。その歌は大気=自然環境を震わせ、祈りの波として宇宙の果てまでも伝搬し、時空を漂っている。忘れられた歌は過去と未来に亡霊のように遍在し、「現在」との出会いを探し求め、接吻を夢見ている。炭書から聴こえる歌は水を呼び、塩は結晶化する。これは、気体から液体そして固体へ、固体から液体そして気体へと変容を繰り返し、循環する、太古の水と塩の転生の物語でもある。火によって焼かれ炭になった紙(その材である木)は、見事にメディアとしての「別の生」を、廃虚のごとく、再び生き始めたといってよいだろう。
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数日前、たまたま手にとってみた本の、たまたま開いた頁を見ると、そこから「あの歌」が聴こえてきた。「接吻はいともすみやかに忘れられる」
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