「町まちの文字」の今回は、東京の現代に現れた文字と、中国北魏の龍門石窟の牛橛造像記の文字、2000年の歳月を離れて書かれた、ともに子を思う母の文字について述べます。
その1は明かり看板「德竹」の文字です。
私は、仕事の都合でよく、永代橋西詰に広がる新川という町に行くのですが、その途上で見かける小料理屋の看板です。
茅場町から永代橋へ通ずる永代通りの二筋南よりの道筋に、それはあります。
この一帯は平岩弓枝の小説、明治維新をすぐ目前にした「御宿かわせみ」という旅籠のあった辺りで、その女主じ庄司るいの許に通う、八丁堀同心の次男坊で、まだ部屋住みの神林東吾が、ふと立ち寄りそうな、この德竹の、黒いガラス格子の中は、板場と向き合った6〜7席の腰掛けと、その後ろに小揚がりならぬテーブル席が3つほどの、小態(こてい)な構えの料理店なのです。
店の前の道を東へまっすぐに下ると、すぐに鍛冶橋通りで、そのまま向こうへ突っ切ればそこはもはや大川端。美しい公園になっていて、そこへ降りると、すぐ右手に永代橋の橋桁が高々とそびえ、満潮のときなどは胸を浸しそうなたっぷりとした水嵩が橋桁を洗いながら迫ってくる。永代橋を東にとれば北側に富岡八幡宮、その向かいには辰巳の花街が開けるという舞台装置です。
そんな書き割りの中で見る、ほんのり暖かい『德竹』の明かり看板。看板というのは多かれ少なかれ、その店のキャラクター、主の気概のようなもの、熱い思いが込められています。ここを通るたびに、この店の料理の、この文字のように飾らない、それでいて豊な風味が思われて、かれこれ20年以上もこの前を通るたんびに、特に夕べの時分どきなど、一度はこのガラス格子を開けてみたいと思いつつ、ついに果たせずにきたものです。
ところが、つい先日のこと、ちょうど昼どき、その店の前を通りかかると、いつもは立てられているガラス格子が、どうしたことか開け放されて、若い娘さんが一人、ケータリングの弁当を並べていたのです。このデフレ騒ぎのなか、もしかして少し業態を変えたのかもしれません。弁当をねえ! 私は一度は通り過ぎようとしたのですが、思い直して、今日こそこの文字の主を訊ねてみたいと思ったのです。恐らくここのご主人かだれかが書いたものか、そうだとしたらどんな人物か、ちらっとでも見てみたい、という予てからの思いを遂げる絶好のチャンスです。
その娘さんも、さあ? ……といったまま奥の板場へ向かって「ねえタイショウ(大将か)、この看板の字、誰が書いたのかってさ」。
板場からこっちに顔を突き出した”大将”と呼ばれた男は、この文字からするともっと年配かと思っていたこっちの予想を裏切って、案外若く、まだ四十そこそこの、おまけにちょとしたイケメンで、なんと「私の母親が書いたものです」というではありませんか。六十代後半の、書家ではないが、文字を書くことが好きなご婦人、ということがわかったのです。
そうか、女手だったのか……。それも店を持つことになった自分の子どものために、その成功を祈って書かれた母からの餞の文字。一画一画一生懸命に書かれています。「德」の字も、旁の心の上に、当用漢字にはない一画をきちんとのせています。そう思って改めて眺めるとこの明かり看板の文字が、この店のお守りのようにも見えてきます。温かいはずです。
お守り、といってもそれは、神社や寺院に見られる護符などのおどろおどろしい超越性を持った文字とは違って、なんとも飾らない筆遣い。結構といい、一筋な息づかいまでが、ひたひたと感じられる文字です。かといって単なる味に堕してもいません。特別にうまく書こうとか、反対にこのごろ街でよく見かける”ヘタウマ”のおもしろさを衒う、といった、斜に構えた、或はいたずらな自己主張もありません。かといってこれがもし、例えば王羲之の文字のような、貴族的なソフィスケートされた文字であったならば、確かに店の格式は表せたかもしれませんが、このようにゆったりとした余地、いわば陰圧の隙間、とでもいった空間を、創り出すことは出来なかったのではないでしょうか。特に、竹の字の、何というか、一切を放下したような左右の呼応。特に右側の縦画のずっ、ずっずっ、と無心に、ゆっくりと降ろした線。終りの撥ねるところは、ふつうならもっと鋭角に切れ上がりたいところを、ゆっくりと、少し開き気味に運んで、最後に穂先の線を微妙に曳き上げながら、辻褄を合わせてここの空間を力あるものにしています。そんなあたりの暢達な感じ、ふと人を誘い込む惚れ惚れとする筆の運びではありませんか。
そのようにこの文字の一画一画を味わってゆくと、起筆の筆のおろし方、縦画の終筆の、その止め方、払いの起筆など、次回の龍門の像造記の文字もそうですが、どちらかというとこの方筆、実際に書いてみると、小学校の手習以来の、いわゆる楷書の書法になれた手からすると、これがなかなか難しいのです。
コメントを残す