『デザインの現場』1988年2月号掲載記事より(文:蓜島庸二/写真:冨田祐幸)
筆の、先端がすっと尖ったあの容ができるには、命毛(いのちげ)とよばれる鋒先(ほさき)になる芯の毛を中心に、何種類かの質のちがう毛を、何段階かの長さに少しずつずらしながら重ねていってつくります。ずらして短くとっていくために、手前にくるにしたがって、はみ出してくる根元を、最初の命毛の長さに合わせて切りそろえなければなりません。この作業を”寸切り”とよびます。この段階になると、それぞれの毛の束は、すべて水を浸ませて五、六センチほどの板状にぴっちりと固められています。これで小筆だと六本文ぐらいの分量ですが、そのなかから”半さし”とよばれる、刃をつぶした切り出し小刀のような金篦(かなべら)で、一本分ずつ小分けしていきます。
書筆にしろ画筆にしろ、さまざまな用途に対応してさまざまな種類のものがつくられていますが、それぞれの用途にしたがった筆の容は、すべてこの段階で決まります。たとえば、〈削用(さくよう)〉という日本画筆。これは鉄線のような強い線を引くためのものですが、昔なら、鋭い命毛の線にニュアンスを与えてしまうような、余分な毛を肩のところから削ぎ落として使っていました。私も若いころ、その削ぎかたを先生から教わった経験があります。もちろん〈削用〉はすでにありましたが、戦後の、手に入りにくいときでした。この〈削用〉は、削る部分を、毛を組み立てる段階でのずらしをきょくたんに強くして重ねることで、はじめから人工的につくりだしておくのです。
この例でも推し測ることができるように、筆は、はじめはそれほど種類が多かったわけではなく、書筆画筆の別さえもなかったといいます。「書画同源」という言葉がありますが、じっさい水墨画のようなもならいいでしょうが、岩絵具をたっぷりと含ませた、たとえば琳派のような絵を考えると、これは少し意外でした。
上野池之端にある日本画筆専門の筆匠、不朽堂宮内親房さん(七十五歳)は、かの有名な得応軒、宮内得応の孫にあたるそうで、親房さんの話では、画筆というものが今のように独立した存在になったのは、みな明治の初め、得応のくふうになるそうです。
なんでもそうでしょうが、この筆という道具も、時代が進むにつれ用途が分化し、表現技術が分節化して、それに対応するいくとおりもの筆が生まれてきたのでしょう。
宮内さんは八畳ほどのコンパクトな日本間で、ちょうどその組み立て作業のさいちゅうでした。やはり水で固めた、艶々とした茶色い毛のかたまりを注意深く重ねていって、宮内さんの左の掌では、段々に積み重ねたかたまりが徐々に厚みを増しています。これは山馬筆だそうです。山馬とはいっても、鹿の毛で腰が強く、文字を書いても、あるいは南画なんかでも、特有のカスレの味をうまくだす機能があります。
と、かたわらで、こちらは白い毛の、やはり同じようなかたまりをいじっていたお弟子のひとり、阿部信治(三十五歳)さんが、つっと宮内さんの前の、やりかけの小さなかたまりをつまんで、私の前にかざすようにしながら、「こうして見ていると、ただ一段ずつ単純に組み立てていっているようだけど、じつはその一段を手に持った瞬間、その手のなかのかたまりを、親指の腹でほんの少しだけしごいているんです」と教えてくれました。そうすることで、同じ一段のなかでもさらに微妙に長さが調節されて、より滑らかな筆のかたちになるというのです。そんなことだれにだって見えませんよね、と、宮内さんの手の内を解説しながら、スローモーションヴィデオでも見るように、それを演(や)って見せてくれました。もちろん阿部さんも、はじめのうちはまったく気づかなかったそうです。
そして阿部さんは、けっきょくこの仕事は、そういうほとんど無意識の、そして微細な、したがって外から客観的に捉えがたい手の動きにみちているというのです。見たって見えないし、ほとんど無意識的な自分ひとりのブリコラージュですから、「この仕事ばかりはいくら口で説明しようとしても、じっさいにやったものでないとわからない」のです。
じつは阿部さんは、宮内さんによると、大学院まで出てロシア語を専攻した、本来ならば学者か通訳になるはずの人だったのですが、それがここのお嬢さんと結婚するにおよんで、一転して筆職人の道を選んだのだそうです。そしていま、親方でもあり舅でもある、この道六十年の宮内さんの膝下で筆作りの仕事を一から勉強しはじめ、かれこれ十年がたちました。しかしいくらここのお嬢さんと結ばれたからとはいえ、学者から職人へという転身はすこし唐突です。大学院出の筆職人は、おそらくほかに例がないそうですが、だとすれば、なおさらのことそういうインテリ職人の視野に映る筆作りの仕事がいったいどういうものか、興味が湧くのも無理からぬことだと思うのです。しかし阿部さんは、それは他人にはわからぬ、筆舌に尽くしがたいことだというのです。
もちろん筆というひとつの道具の特性とか、原料である毛のメカニズムも、現代ではかなりの部分にまで科学の光が届いています。つまり言葉にすることができます。しかしなんといっても、相手は生きた動物の毛です。
さっき筆の容をつくる毛の組み立て作業を見ましたが、筆の機能を決定するものに、毛そのものの質の問題があります。筆として使う毛は馬、羊、山羊、いたち、鹿、狸、りす、そのほかむささびや猫にまでおよびますが、そして油絵筆ならば、豚や貂などまで加わりますが、それらの毛のもつ剛柔、硬軟から太さ細さ、腰のフィーリング、絵具の含み具合など実に多様で、筆作りの仕事は、それぞれの用途に向けてそれらの毛を調合しなければなりません。兼毫(けんごう)といいます。もちろん純羊毫(毛)とか、いたちゾッ生(き)などとよばれる単一の毛でつくる筆もありますが、それさえも、場合によってはその単一のなかで、それぞれ硬軟異質な毛を混ぜ合わせたりするそうです。そして、この感覚がまことにむずかしい。
もう一軒たずねた。これも有名な筆匠、名村大成堂の名村光男(六十二歳)さんは、いちおうのマニュアルはあるにはあるが、「なにしろ同じ毛でもその動物の生い育った環境の、その年の気象条件によっても、それが一頭一頭、みな毛の性能や毛癖が微妙にちがうんですから、どうにもなりません」といいます。そのうえ、それを使う作家の側もまた生きものですから、それぞれの仕事に個性のちがいがあって、そのふたつの相乗によって、筆に要求される微妙なニュアンスは、それこそこれも筆舌につくしがたいものだ、というのがやはり結論だったのです。
名村光男氏による付立筆の製作。数種の原毛を用いるのは、筆の用途によって、その運筆上の便宜をはかるため。付立筆の場合、鋒先となる命毛に対する他の毛の使用比率は、およそ10対12。
【精毛】材料となる羊、狸、馬の尾脇の毛、鹿の原毛は、それぞれ4、5時間煮沸して、油脂分や汚れをとり、原毛のくせを矯正して伸びをよくするよう、”火のし”しておく。
【選毛】原毛の質、太さ、長さなどを選び、粗悪な毛をとり除き、手板に軽くたたきつけながら根元をそろえ、櫛をいれて不要な綿毛をとり除く。
【毛揉み】長短数段階に分けた各種原毛を、米のモミガラ焼き灰をふりかけて、手の平でよく揉む。
【先寄せ】手板で毛先をそろえ、櫛で逆毛や屑毛を取り除く。この作業をくりかえして、筆芯を形成する命毛(羊)、喉毛(狸)、腹毛(馬の尾脇)、腰毛(鹿)などの各部位をそれぞれ精選していく。
【毛組み】各部位の毛を水でしめらせてまとめ、適当な長さに切りそろえたものを、半さしを巧に操って板状に広げ、丈の長い命毛の上に順に、喉、腹、腰の毛を重ねる[右上]。
【混毛】重ね合わせた毛を半さしで紙状に広げ、さらにおりかえす。この作業を6、7回くりかえして、各部位を均一に混ぜ合わす[右下]。
【芯立て】混毛した一本分の毛をコマとよぶ芯立て壺に入れて、太さを決め、芯を形づくる。
【上毛かけ】付立筆の上毛は羊と馬の混毛。筆芯と同様によく混ぜ合わせ、紙状に広げたものを芯の周囲に均等にかぶせる。これで筆鋒の構成がおわる。
【緒締め】乾燥した筆鋒の尻に焼きごてを当てて固着させ、根本を麻糸で括り締める。
【竹軸の面取り】切り出しを利用した筆ガンナで軸の小口の角をとりをし、刳り盤という小刀付きの道具で軸の内側を削りとる。日本画筆の場合は、凹状にえぐるので熟練を要する。
【仕上げ加工】筆鋒の根元に接着剤をつけて、竹軸に挿入し固定する。筆鋒全体をフノリにひたしたのち、手でしごいたり、口にくわえた絞り糸で余分のフノリを絞りとって形を整える[左]。自然乾燥ののち、竹軸の歪みを修正、品名を刻し、サックをかぶせてできあがり。
そういう名村さんは、ちょうど〈長流〉と名付けられた「付立筆(つけたてふで)」を手がけているところでした。これも絵筆で、そしてかなり腰の強さを要求される筆ですから、名村さんは、羊(といっても中国産の山羊)を命毛にして、それに狸、馬の尾脇の毛、そしてさらに腰の強み(こわみ)を増すために、鹿の毛を調合しているそうです。その強みは、たとえば雪舟の破墨山水、あの力強いスピード感に充ちたカスレをだすのなんかによいはずです。それにしても、そのとき自分が手にした毛の質や状態によって、微妙にその混毛の割合を加減していかなければならない、そういう加減のほど—-毛の質が、はたしてどうであればどのくらいの割合に加減するのか、というそこのところは名村さんにも、またさきの宮内さんにも、ついにまったく言葉にしてもらうことはできませんでした。いわば長年の勘どころなのです。
こうした原毛のおもな生産地の、自然破壊と農耕形態の急激な変化により、上質な毛を持つ動物が、私達の環境から姿を消してしまったうえに、輸送手段の発達や国交が改善されるなどして、いまでは世界のかなり広範囲にわたってそれを求めるようになったのだそうです。とくに中国のものはやはり上質で、そのほかにソ連のシベリア、そしてカナダ。油絵のセーブル筆はシベリアで獲れるコリンスキーとよばれているイタチの尾、しかも雄の毛が最高だということになっています。そういうものも、入手しにくいとはいえ輸入されています。
名村さんの仕事場も東京で、それもたった一本だけ通っている路面電車の、有名な鬼子母神の電停のすぐそばにあります。こちらは十畳間をふたつ打ち抜いたくらいのやはり和室で、ここに十二、三人の職人さんが働いています。そして名村さんのこの仕事場では書筆から画筆、それに油絵の筆もつくっているのですが、私たちには、油絵の初歩からすでになじみ深いナムラの筆は、この部屋から生まれていたのです。十二、三人の職人さんがあぐらの姿勢で坐って、それぞれにひと握りほどの毛を、掌のなかでなだめすかすように小さく揺すぶっていたり、あるいは前述のようにぺたぺたとした毛のかたまりを”半さし”で操っていたり、掌のなかの毛を櫛で梳いて、無駄毛を自分のあぐらのなかへしきりに降らせていたりしています。そうしながらさきの宮内さんや名村さん、そしてこれら熟練のそれぞれの掌は、こうして自分がいま感触する毛の一本一本に刻み込まれた、それが生い育った風土の、あるいは気象の記憶を敏感に解読しては、いま、なにをどのようになすべきかということを、その瞬間瞬間に自分の指に言い聞かせている、そういう手の動きなのです。
さっきの阿部さんが”言葉では伝えられない”と、つれなくもいったそのひとつは、こういう感覚のことだろうと思うのです。またそういうときの阿部さんの若々しい眼は心なしか、言葉を超えた、いや、言葉をあてにしないこの世界の、まだまだ自分にはとらえられていない、たくさんの技術や原理が存在するという予感をたたえていて、そのことにかえって大きな安心の境地を見出しているようなのでした。
原毛にそなわる風土の痕跡のことを書きましたが、職人のだれもが言葉にするものに、筆の毛管現象のことがあります。さっきのいったように、筆に関するこの部分は、かなり科学的なミクロの光が届いています。そしてその結果、一本一本の毛に鱗状の積み重ねがついていて、それがその筆の墨や絵具の含みぐあいや、画面への流動のぐあいを決める要因になっている、ということがわかります。
そういう鱗は人間がつくるわけではありませんから、考えてみると、この仕事はほとんど自然そのものが素材となっていて、しかしそれは、人間がその素材と闘って跡形もなく粉砕して、ぜんぜんべつなものをつくりあげるというものではなくて、その素材(もの)にそなわった自然の摂理を見抜いて、それをいかに自分の手元へ引き寄せて、筆という新たな文脈へ組み立て直してやるかという、そういう作業なのだとおもうのです。職人たちの掌の、いちようになだめすかすような仕草も、あるいはそういう感覚のあらわれかもしれないのです。だから、このふわふわと、ちょっとした風の動きにも飛び立って、ふつうなら手に負えないものを、それを貫いている自然の摂理さえ呑み込んでその扱いに熟達すれば、なんなくわがものとすることができます。
さっきから見ていると、職人たちはしきりに、毛のかたまりをちょいちょいと水に浸けては、次の作業に移ります。ちょうど小鳥が鉢の水に嘴を突っ込むみたいに、ちょっとした動作をくりかえします。こうして水を介在させているかぎり、毛の反乱はしっくりと圧え(おさえ)られています。そしてそのうえに、いま水に浸けたものをそのまま口へ持っていって、つっと一瞬、口に含みます。毛先を舐めるのです。そうしてその鎮圧の、すなわち含まれた水分のぐあいを確かめたり、吸ったりして調節するのです。
よく”画家(日本画の)は五色の糞をする”といわれるくらいよく筆を舐めます。けれどもそれをつくるにあたってもまた、このように舐めていたのです。口唇という、もっともデリケートな部分の、しかも唾液という人間の生理を、毛管現象という自然の摂理にそわせて働かせることによって、そのときその筆が匿しもっている自然の気配のようなものを、いちいち感じ取っていくのではないでしょうか。
私たちが書く、あるいは描く文字なり絵なりは、じつは人間と自然のそういうやりとりの、そのすぐつづきのところに象(かたち)をなすところのものだったのです。
*本稿に記載されている年齢等は雑誌掲載当時のものです。
このルポルタージュを書いたのは1988年、つまり今から22年もの昔に書いたこの記事をここに再録することに快い許諾を与えてくれた美術出版社「デザインの現場」編集部に、まず心からの謝意を表したい。
そしてそんな昔に書いた文章をいまここに、改めて読み直して、私自身の、また世界そのものの上に流れた22年という歳月の、まさに”隔世の感”を禁じ得ないものがある。
その間に画家であり編集者としての私の、ほぼ60年間にわたる作家生活の上に起こった変化もまた隔世のものがあった。
それは2005年に国際芸術センター青森における、3ヶ月におよぶアーチスト・イン・レジデンス体験から得た「グーテンベルク炭書(詳しくは「亀甲館だより No.11 グーテンベルクの塩竈焼き」をご覧ください)」と名付けた”書籍を炭に焼く”というプロジェクトが加わったことだった。それは一口に言って、情報というキーワードをもって我々の住む地球環境を、自然/宇宙という巨大な情報システムのなかに脱自的に没入する、そのような人間の姿に出会うというものだったし、それまでの私の画家/編集者というデュアルな生き方を、世界という情報環境へ向けて脱自的に、自分の生き方を統合する契機となるものだった。
しかし私のこの筆作りのルポの取材はそれに遡ること10数年も前のことで、私はそのとき、筆作りの現場に見たものを、以下の言葉で締めくくっている。
よく”画家(日本画の)は五色の糞をする”といわれるくらいよく筆を舐めます。けれどもそれをつくるにあたってもまた、このように舐めていたのです。口唇という、もっともデリケートな部分の、しかも唾液という人間の生理を、毛管現象という自然の摂理にそわせて働かせることによって、そのときその筆が匿しもっている自然の気配のようなものを、いちいち感じ取っていくのではないでしょうか。
と・・・。いま改めてこれを思い直してみるに、これこそ宇宙/世界という巨大情報システムのなかに没入的に生きる人間が、自分の環境の、アリストテレスのいう、この世界の、または自然の形相ないし形相因と出会いながら、その生の瞬間々々を創発してゆく真の姿を見たことに対する感動だったのだと・・・。さきの筆作りの場合は獣毛のもつ自然という”情報”のそなえる形相と、人間という自然/社会の中で生きる情報的形相の出会う、まさに創発的”場”の在処をそこに見たのだ。そこにはもはや孤立的な”物”も”心”もなく、また対峙的な”自”もなくしたがって”他”もありえない、そういう世界を・・・。
そして再度これを、先に述べた私の60年におよぶ画家/編集者というデュアルな生涯に引きつけて顧みるに、画家としてはつねに自分という個と対面し、いっぽう編集者としてはグーテンベルクと出会い、またいけばなという仕事を通して自然と出会いしてきた、そういうなかから得ることができた「グーテンベルク炭書」という今の仕事も、じつはこうした私のデュアルな生き方によって、いちいち獲得してきた(それはきわめて卑小なものであり、本来的に美術作品とはほど遠いものだが)ものだったことをあらためて思わずにはいられない。
いま私たちはエコロジーという眼鏡をかけた、かつてない自然に直面している。またいっぽうでは、かつて経験したことのない電脳世界という情報社会に投げ込まれた人間の姿に直面している。そういうときに私は、私の「グーテンベルク炭書」という今の仕事によって、本のもつ”情報”というキーワードの形相を、よりふかく迫っていくことで自分の作品を生み出しながら、その瞬間々々の私の、生の未来を、生きてゆきたいものと思っているのだが・・・。
2010年3月1日しるす
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