ちょっと時季外れですが、今回はとても面白いカレンダーの紹介です。毎年12月はカレンダーの季節ですが、いつも幾つかのカレンダーを送っていただいくので、部屋ごとに掛けてはたのしんでいますが、中に、いつも心待ちにしているカレンダーがあります。それは私が文字に関心を持っていることを知って、お送りくださるもので、12枚もので全ページがタマだけで構成されているのです。それも毎月、月替わりで世界の有名人、例えば文学者というより文豪、科学者、音楽家、芸術家、要するに世界の偉人の肉筆の数字とサインです。いつもカレンダーを開くたびに、よくもまあ集めたなあ、という感慨にみたされます。
例えばゲーテとか、モーツアルトなどの現存する原稿や書簡などの中から数字やサインを選んで、カレンダーのタマとして構成するのです。だから選ばれた人物によっては漢数字になっていたりして、ちょっと変わった時間が流れています。
このカレンダーの名前は『偉人筆跡カレンダー』。筆跡とくれば、文字好きの私にとってはまことにこたえられない魅力を発しています。しかも今年は宮澤賢治特集なのです。
サイズは横45cm x 縦50cm、最後に+ 5cmの頁がもう一枚ついていて、そこにはその年の365日が月別の一覧表に、その上部には、いままでに出たこのカレンダーの紹介とカレンダー展での受賞歴、そしてその本体からはみ出た+ 5cmの部分には「ミサワホーム」のロゴがついている、こういう類のカレンダーにはよく見られるデザインになっています。
その間、「『1九88』世界の建築家・芸術家」、「『Bel Air』世界の音楽家」、「『上下』日本の文学者」、「『PEACE』世界の科学者」ではアインシュタイン、ガレリオ・ガリレイ、ニュートン、ライプニッツ、キューリー夫人、ダーウィンなどの筆跡が集められており、なんとも興奮するカレンダーです。「『日記』幕末・明治を生きた偉人」というのもあり、もちろんいま人気の渦中にある坂本龍馬も、その9月号で、「日記」の中から抽出された数字やサインが登場しています。なかでも私が感激したのが2000年の「『二千年』中国と日本の偉人」でした。1月の空海に始まって魯迅、小堀遠州、王羲之、光悦、孫文、雪舟、乾隆帝、一休、毛沢東、沢庵の筆跡で一年間を送るというものです。
その他にも「『21世紀』未知の扉を開いた先覚者」とか「New Air/新しい環境を築いた偉人」などといった、世界の知を仕分けするそのコンセプト、たとえば、先に挙げた「『二千年』中国と日本の偉人」にしても、この人選には、ずいぶん苦労したことでしょうが、とにかくどの年も、とても刺激的なのです。とうぜん、このユニークなカレンダーは、1988年の第39回全国カレンダー展での受賞を始め、ニューヨークのADS賞、国際カレンダー展で、毎年のようにかずかず多くの受賞を果たしています。
そして今年の宮澤賢治の特集の表題は『お母さん。いま帰ったよ。』なのです。先述のように、たいていの年は12人筆跡を集めたものですが、個人で特集は、去年2009年の夏目漱石「『新しい家』不動の人気作家・夏目漱石」(これは私は残念ながら見ておりませんが)と今年と2回目になるものです。
特集ですから、賢治さんのすべてではないにしても、いま挙げた優しい言葉にしても、またその筆跡にしても、このカレンダーに付いている解説がまた、短いながら賢治さんの創発的な生活の宇宙に深く思いをとどかせた、すばらしい文章で、しかもどの月もきっちりと304字なのです。それは先年完結した筑摩書房版の「新校本 宮澤賢治全集」の校訂版を、ぎゅっと濃縮して、カレンダーというもう一つの宇宙をこしらえた、という趣で、賢治さんのさまざまなことがとりあえず解ってしまう。それも一年かけて解ればいいのですから、かなりスローライフです。いや、そんな暢気なモノではなくて、賢治さんの灯す「 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明」に照らされながら、まさに「わたくしという現象」を、一年をかけて生きる、という仕組みになっているのです。
これは「銀河鉄道の夜」第3章の「家」のなかで、「工合悪くなかったの。」に先だって発せられるあのジョバンニの優しい言葉です。カレンダーの表紙にはその原稿からとった文字が、その優しさを一身にあつめるように、「賢治」のサインと、宮澤という篆刻の朱印とが共にデザインされています。おそらく実際の字の何十倍もの大きさに拡大されていて、書くときの速度や細かい息づかいまでもが伝わってくるような気がするのです。1月から始まる各月のタマにしても、またいままでのどの年のカレンダーにも言えることですが、これがもし活字だったらこうはいきません。そういう息づかいを自分の部屋の中に掲げてすごすという日常は、私のように文字を愛好する者でなくても、おそらくこころを躍らせられるモノがあるに違いありません。
童話から宗教、農業、地質学、音楽、肥料会社経営、学校の教師、などなど、賢治さんの活躍は文字通り多岐に亘る、忙しい賢治さんのことでしたから、それに生きた時代も、私たちのつい幾代か前のことなので、遺された筆跡もたくさんあります。そんなことから一年を通して特集的に作ることが可能だったのでしょう。それになんといってもいま、世上では賢治さんへの関心が非常に高まっている、そういう時代感覚をうまく捉えています。
そして月文字とタマですが、これが世のカレンダーいっぱんの役目でもあり、それがミサワホームのカレンダーでいえば、賢治さんの書き遺した筆跡の中からアラビア数字/算用数字だけを抜き出して、それを30日、31日分作るのです。1,2,3はそのままですが10日は1と0を、11日は同じ1を二つ、12日は1と2を、以下もそのように組み合わせて作るのです。これは毎年のカレンダーのすべてが同じ方法で作られているので、だれの場合でも最低1〜9と0の10個の数字を見つけられれば出来ることになります。それは活字を組み合わせるのと同じです。
賢治さんの場合、アラビア数字だけでなく、縦書きの日本数字の月もあります。この場合はアラビア数字の場合とちがって、0ではなく十にした日本数字10個で組み合わています。よく見るとアラビア数字、日本数字それぞれふた組で12ヶ月を展開しています。
1月のこの頁には月文字のところに、賢治さんの小学5〜6年生頃に書いたという「国語綴方帳」。その中の「古校舎をおもふ」という文章では古びた校舎への思いやりとして「あの風あたりの強いところで寒さに泣いてゐるであらう。」といった文章の、これは鉛筆ではなく筆書きの文字と、風に翻る幟の絵が紹介されています。この絵(右写真)は「国語綴方帳」の表紙の裏に書かれていたもので、賢治さんも私もそうですが、小学校5〜6年生というと、かなり懸腕の筆遣いに慣れてきたはずで、翻る幟の線なども、すいすいとよどみなく、いきいきと引かれています。墨継ぎの跡もあざやかで、それこそ息づかいの抑揚がありありとあらわれています。昔は私などもそうですが、よみ、かき、そろばん、といって「書き方」は小学校の必修科目でした。帳面の表紙に書かれていた宮澤賢治というしっかりとした楷書の署名が、トン、スー、トン、とか、スー、トンとか、これがかなり律儀です。
この、月文字に添えられたイラストは、その他にも「永訣の朝」(三月)、「涙ぐむ眼」と題された花壇の構想図(4月)、「春と修羅」(5月)や「銀河鉄道の夜」(7月)の手稿からのものもあります。もちろん「雨ニモ負ケズ」もあり、それは十一月。変わったところでは賢治さんが練習したチェロの自筆の楽譜(2月)とか、まさに「チェロ弾きのゴーシュ」を思わせるものもあります。そうそう「風野又三郎」もありますが、たしか私が5〜6歳の頃、下町の映画館で初めてこの映画を見たのですが、そこでうたわれた「どーどど、どどーどど、ああかいリンゴも吹き飛ばせ、酸っぱいリンゴも吹き飛ばせ・・・」と歌いながら「風野又三郎」ごっこをしたことを思い出します。また小学校を出た辺りで「永訣の朝」に出会いました。(あめゆじゅ とてちてけんじゃ)という、死に瀕した妹のことばは、解説で意味はわかりましたが、東京生まれの私には、なかなか実感できないままに、その悲しみの一節を記憶していたことを思い出します。
この算用数字の字様の特徴をみながら、思わずそういう賢治さんの生活と関係づけて見たくなるのですが、全体が円みを帯びて、一瞬もとどまらぬ、ある速度を保ちながら、すいすいと走っていく、そう、まさに行書、いや、或る場合にはまったく草書体のものもあります。
じっさい各月の右下に措かれている賢治さんのサインも、中にはまるで草書。しかしけっしてずらずらと続いてしまっているわけではないのですが、一画一画にこめられた動勢、たえず一瞬の未来をはらんでうごめいています。多岐に亘る賢治さんの活動とともに在った身体行動のさまを強く感じさせるのです。
ところが、カレンダーには日本数字を集めた月もあるのですが、この日本数字、十五とか二十二というふうなものですが、もちろん縦書きです。しかし、私がこのカレンダーを手にして以来、ずっと眺めているのですが、横画の書き方が異様なのです。どのようにペンを走らせたのか、一画一画きちんと書こうとすれば、ふつう横画の起点は上から、とん! と押さえるように始まって、そのまま横へ引かれます。ところが賢治さんの場合よく見ると、下からぐっと突き上げるように書き上げて、それから横画に移って、そして終筆のところでもう一度下へ下げて止める。どうしてそうなるのか謎です。
同カレンダー5月の「一」
もう一つ、五月の一などは、斜め左上へ、鋭く跳ね上げています。このほうはなかなか美しい筆致ですが、これは書道の行書体などでは時として見られるものですが、たとえば大という字の横画から次の払いの頭へ移ろう、などというときにこのようにして続きの感覚をだすのですが、そういう書道の下地がペン字でも出たのでしょうか。
先の筑摩書房版の「新校本 宮澤賢治全集」の校訂版では、インクの色については書いてありましたが、どのようなペンであったか、というところまでは書いてありません。
先日、青山一丁目で見かけた、寿司屋さんの看板(写真左)。「美」という字は羊が大きいということだというのですが、その下の大という字の横画の止めが、まさに次画の頭へ向けて跳ね上がっています。
もう一つ、近くの赤坂小学校の正面に建っている校歌の碑ですが、「赤」の始めの横画の止めや、「校」の木偏の横画に、同じような、しかしこちらはかなりダイナミックな跳ね上がりが見られました。
ペンといえば私たちの子どもの頃はGペンというのがもっぱらで、用途によっていろいろな形のペンが出ていました。ペン先がカモノハシのように、平べったく2枚になったものもありました。いま思うとそれはたぶん、アルファベットのロマン系の文字のために、太い縦画と細いシェリフを書きわけるためのものではなかったかと思うのですが、どなたかもしご存じでしたらお教えください。
また、非常にポピュラーなものにガラスペンというのがありました。先を油砥石で研ぎながら使うのです。溝が何本も通ったガラスの棒をバーナーで捩りながらとかして作るのです。捩ることで溝の長さが長くなって、インクの保ちがよくなるのです。文具屋で売られているのですが、縁日の夜店などで実演しながら売っていたりして、懐かしい思い出です。それから子どもの頃、万年筆を初めて買ってもらったときの感激は未だに忘れられません。
かなり丁寧な年譜も付いていて、賢治さんが生まれたのは1896年、1931年生まれの私よりちょうど33歳年上です。そしてかのウォーターマンによって万年筆が発明されたのが、ネットによると1884年ということですから、賢治さん12歳の時ということになり、はたして賢治さんは万年筆を使うことが出来たのでしょうか。そしてこれらの筆跡の中に万年筆で書かれたものがあるかどうか、進歩的な賢治さんのことですから、ついには使ったのかもしれません。
また私が3歳の時、つまり1933年に肺結核でこの世を去った彼と私の間には、傑出した文学者とその読者、という以上の何の関わりもないのですが、でも、そのとき私は3歳でしたから、たった3年間であっても、私は賢治さんの生きた、あるいは呼吸した、同じ宇宙の空気を吸ったのだ、という感慨。「わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です」という、そういう世界と、ほんの一瞬間でしたが、すれ違ったという得難い事実を、なにかとても希有なことのように思わずにはいられないのです。とにかくずっと送り続けてくださったミサワホームに感謝です。(了)
毎年12月はカレンダーの季節です。と書き始めましたが今は3月も末で、何とも季節外れですが、毎年、書き始めては途中下車。というのもここ数年、私の展覧会がどういうわけか一月に開催されてきたため、準備などでつい後回しにされて書き上げられませんでした。幸いというか、今年は1月の展覧会が、再開発にかかったギャラリーのビルの取り壊しのため突然キャンセルになり、次の5月の個展の間にちょっとした隙間ができたので、思い切って書き継ぎます。
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