焼畑の神を祀れ

グーテンベルク炭書/文明の始原へ向けて
─ えっ!焼き物? ─
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写真は INAXライブミュージアムの「土・どろんこ館」

 私は2005年から、絵を描くことと平行して、本を炭に焼く焚書ならぬ炭書、というアートプロジェクト「グーテンベルク炭書/文明の始原へ向けて」というテーマを軸に発表を行ってきました。

 その中の一つ、『焼き畑の神を祀れ』という個展(2009年やきもの新感覚シリーズ6th/蓜島庸二展[清らかな炭化のかたち]常滑INAXライブミュージアム)をご紹介します。

 この美術館は、ご存知のINAXという衛生陶器ないしはタイルメーカーを母体とする美術館であることから、やきもの(陶芸)の新しい表現に挑戦する作家の紹介を続けています。きっかけは、わたしの「グーテンベルク炭書」(『亀甲館だより』No.11参照)という仕事が、それは、本を炭に焼く ── やきもの、という評価を得てのことでした。私は今まで、自分の「炭書」という表現を “やきもの” と思ったことは一度もなかったので、そのときのキュレーターの自由な視点/読み替えに、一瞬、虚をつかれたような刺激を受けたのです。「えっ、やきもの?」。そこでわたしも “陶器を焼く「土」” から、一挙に石器時代の、 原始農耕における「焼き畑」によって焼かれるべき「土」、へと捉え返すことにしたのです。

 もともとわたしの炭書は、炭に、とはいえ本を焼いてしまうわけだから、そこにあったテキストは、すべて失われてしまう。その代わりに、この場合では「焼き畑農耕」という想像上のテキストを作品化するわけです。

個展『焼き畑の神を祀れ』
個展『焼き畑の神を祀れ』(2009年やきもの新感覚シリーズ6th/蓜島庸二展[清らかな炭化のかたち]常滑INAXライブミュージアム)
─ 作品の構造 ─

 作品はまず、単行本/全集などを、5〜10冊ほど、麻縄で束ねて、今回はその塊を60個ほど、青森県の深浦という日本海側の町に、岩谷義弘さんの経営する炭工房「勘」という、環境に特化した炭を焼く工房があって、そこに送って焼いてもらいました。本には紙を始め印刷インクやコーティング剤などが含まれていますから、それを焼くときに出るかもしれぬ排ガス類を安全に処理する能力を備えた炭焼き窯が必要なのです。

 次に、炭書一つ宛に1〜3本宛の試験管を別に用意して、そこに土を入れて、焼き畑農耕の栽培植物であるヒエやエゴマ、粟、ソバ、陸稲、蕪の種などを播き、発芽させる。その上でこの現代的子宮である、いわば試験管ベビーを、炭化した本の塊に埋め込み、オブジェ全体を蜜蝋で包み、焼き畑農耕の山の女神に捧げる供物/予祝とし、また一方で、おなじく現代的子宮である試験管を、いけばなの、壷を始めとする花器に見立て、炭書のオブジェに埋め込み、こちらには水を入れて、そこに縄文の有意植物である栗の枝やブナ、楠、うばめがしの枝を挿して、これは山の女神の依り代に見立て、祀りの場のしつらえとしました。

炭書の風景1 炭書の風景2 炭書の風景3 炭書の風景3
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─ もう一つの土/どろだんご ─
光るどろだんごRED
光るどろだんごBLUE
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 ところであなたは、子どものころ「どろだんご」という遊びを経験したことがおありでしょうか。水を加えた柔らかい土をおにぎりのように手のひらで転がしながら、ボールのように、なるべく真球に近くなるまで転がして固めてゆく、そういう遊び。

 みんな夢中で憑かれたようになって、まるめればまるめてゆくほど、なぜか水分が少しずつ抜けてゆき、なぜかわからないけれど、カチンカチンに仕上がってゆく。まったく不思議です。やがて掌(てのひら)は、もう一枚皮膚が生えたかと思えるほどに、巾ったい、それは無感覚状態にちかく、あるいは掌のだんごが自分と化し、自分の掌で自分をまるめ、転がしている自分、といった感覚。微かに熱発する掌。

 ところが、この美術館にはなんと「土・どろだんご館」というものがあって、このどろだんご遊びのワークショップが常に開かれているのです。それが大人気で、2006年10月の開館以来、今までに6万7千人が体験しているというのです。

金属の容器の縁を利用して形を削りだす
ガラス瓶の口を利用しての磨き
光るどろだんご
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 ここでは、私の子どもじぶんとは違って、さらに金属の容器の縁を利用して形を削りだして、球体の精度を上げたり、色付けや、ガラス瓶の口を利用しての磨きなど、進化した技法も加わって、最終的にはまるで撞球の球のように、美しい球が出来上がります。この達成感は例えようもない幸福なひとときをもたらすのでしょう。

 月並みですがまさに「遊びをせんとや、生まれけむ」なのだし、またそこにホモ・ルーデンスとしての人間の本来的な姿をみることも、もちろんアリなのですが、私の子どもじぶんとは違って、土そのものが疎外され均質化されてしまった日常のなかで経験する、かなり切実な遊び、なのです。

 しかしこの「あそび」、「焼き畑農耕」とか「やきもの」といった生産形態の土の、もっともっと根源によこたわる「土」のもつ自然情報と、それをいじる掌の身体的生物的な遺伝子とか細胞とかいう情報、それと交叉する人間の言語情報、あるいはそれら一切を包む、その “時” の持つ宇宙/地球情報とが掌の上で出会う、まことに希有な一点に起こるひとつの「あそび」であり、単なる言語由来の情報観を超えた、あるは揚棄を促すところの営為。

 どろだんご作りもわたしの炭書も、その一点に立ち会うべく願いを込めた、人間的なささやかな投企に他ならないのです。

─ 言語由来の情報観からの旅立ち ─

 本を炭に焼く ── 15世紀の大発明である活版印刷術は、人間が言葉を編み出し、文字/本というメディアを創りだして以来の様々な過剰を、集約的に拡大して今みるような巨大な文明を・・・。それも今やIT革命とか、電子本などへと、主役の座を明け渡そうとしながらも、一方では、長年にわたり地球の熱代謝のキャパシティを遙かに超える豊度を、自分たちの「土」に求め続けてきた現代の資本主義農業の、その果てにエコロジーという、いまだかつてない眼鏡をかけた自然と向き合い、そこに命を繋ぐというハメになった人間。を、羽交い締めに抱え込んできた情報という怪物。

 それも今、アリストテレス流に言えばプシュケーの、それは人間ばかりでなく、植物にも石にも水にも、つまり、わたしとわたしたちを囲むすべての、有機も無機も、さらに政治も経済も、戦争さえもまた、自然/宇宙という巨大な情報システムに、没入的に組み込まれて、その巨大の中での思わぬ不均衡、乖離の極限のところにうち建てられた、まさに現代のバベルの機能不全。2010年炎暑の8月、パリ在住の作家ジョナサン・シモニーと私は、そんな気持ちを[DYSTOPIA](2010年8月30日〜9月11日銀座Art Live。『亀甲館だより』No.16参照)というテーマに託し、2人展をしましたが、今回の3.11という大震災は、それが最も悲劇的な形で惹き起こされた、バベルの崩壊、ではなく、まさにメルトダウンの、あるいはその発端に、私たちはどうやら立ち会うことになったようです。

 そうした一連の推移のなかで、私の炭書(焼かれることでただの物質と化した)に、現代のバベルとしてのコミニュケーションの不能性を負わせると同時に、実はもう一つ、炭のもつ吸収浄化能力という陰圧の情報を具えた物質、に転成させることで私は、それをせめてもの「希望」として、世界/地球という箱に、仕舞っておきたかったのです。なんだか少しおセンチですね。(おわり)

※「もう一つの土/どろだんご」に掲載されている写真は、INAXライブミュージアム「土・どろんこ館」の提供によるものです。
[URL]http://inax.lixil.co.jp/clayworks/

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