今、光である絵の具の粒をひたすら降らせる、私はゼウス!

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 ▲ 亀甲館(アトリエ)入り口 by I.I.

 私の仕事は今、高さが5メートルあるこのスタジオの天井に開けた、巾90センチ長さ10メートルの明かり取りのスリットから射し込む、弱々しい冬の光りの底で、去年の秋頃からずっとそうなのですが、床に敷き並べたおよそ20枚ほどの小さなボードに、その弱々しい光を絵筆にしみこませるように、ポットの絵の具をそれからそれへとすくい取っては、それを床のボードに向けて振りまく、というような作業に明け暮れています。

 ボードには絵の具の微妙な粒々が無数に降りかかって、瞬く間に画面に溢れていきます。それが乾くのを待ってまた別の色を降らせます。もちろんスタジオのコンクリートの床にも、振りまいている私の作業着にも靴にも、容赦なく降りかかっていきますから、床とボードと、あるいは少し大袈裟ですが、もしそのまま続けていけば自分自身との境目さえがつぶつぶと無くなっていく、といった感じです。古い川柳に「糸巻きや向こうで亭主踊ってる」というのがありますが、おそらく私のそうした作業の有様をよそから眺めると、そんな具合ではないかと、ふと可笑しくなります。

 作業はそれだけで終わるわけではなく、私の場合はいつもそうなのですが、更にそこに別のドローイングの切れ端を様々にコラージュさせて複合的な形にしていくのです。そうして出来た第一陣のボードはすでに作品になって、スタジオの展示空間にセットされています。

 その踊りは、やがて無心というよりは、意識の比重が非常に軽くなって行く、そんな感じになってそれは或る快感といえるものなのですが、そのようにして、ただぼーっとなって、ひたすら光である色彩、あるいは色彩である光、の粒々を降らせていくのです。まるであのダナエにむけて黄金の光の粒を降らせた、というあのゼウスみたいな、そんな気持ちになるのです。 これはギリシャ神話の名場面の一つですが、かのバッハオーフェン流に言えば、父権的なギリシャの神、とそれ以前の母権的な神々との戦いの匂いがしなくもありません。

 実は、例え一時にせよ、こうした生命的な微細なものへの連想を誘う私の絵画は、そのテーマを「クローンド・ヴィーナス」つまり”クローンされたヴィーナス”とよんでいますが、それは一度描き上げた自分の絵画の一部分を切り取って、新しいキャンバスの上に置き、その切れ端のなかに含まれている、私の絵画の情報を新たに読み変え読みとって、そこから新しい作品を創っていく、という、ちょうど細胞から新しい生命を創造してゆくクローン技術に見立ててそう呼んできたものです。これは一種の単為生殖的な”見立て”ですが、これら全ては私のいわば「牽強付会見立主義」とでもよべる性癖に由来するものです。そしてその方法も昨年で20年の時間がすぎました。ですから私の絵画ではどこか生命的なものへの関心が常に横たわり、それが原動力になって新しいものを作り出しているように思うのです。


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