コンテンポラリー・粋(すい)/狂 1

池田忠利の『スクラップ・ワンダーランド』について
– 池田の大前提 –
SCRAP WONDERLAND
池田忠利 作品集出版記念展のご案内

[展示期間]2009年11月9日〜11月14日
[営業時間]12時〜19時/最終日は17時まで
[場所]ギャルリー志門
    東京都中央区銀座6−13−7
    新保ビル3F
[電話]03−3541−2511
[URL]http://www.g-simon.com/

スクラップ・ワンダーランド
 ▲ 作品集『SCRAP WONDERLAND』

 渚の漂着物を素材にする、というのは池田忠利のここ15年余の仕事の大前提だ。

 しかし漂着物なら何でもいい、というわけではなく、これは池田の言葉に従えば「向こうから媚を売ってくるものを拾う」というのだ。「向こう」とはもちろん漂着物。この機微を第三者が理解するのは難しいが、それは漂着物の側から送られて来るふとした”秋波”を直感的に捉える、という一種のアフォーダンスな態度ということになろう。つまり主体としての自分の美意識とかアイデアからする選択眼に固執し、「これはおもしろい」「これは駄目」といちいち選んでいくのではなく、選ぶのはむしろ向こうで、漂着物のほうからまず自分を選んでくる。コトはそこから始まるのだ。漂着物に対して、単にそこに横たわる無機的なモノとしてではなく、選択的に自分に向かって一歩踏み出してくる能動的な、そういう働きをもった主体、として構想されていることになるわけで、言うならば間主体的関係。池田の創造の場である渚とは、打ち寄せる漂着物があたかも行きずりの女性のように、人間に対して秋波など送ってきたりするわけで、池田のそんな神話的想念が、一見ユーモラスでナンセンスな生きものたちが生息するIKEDAワンダーランドの特性をつくり出しているのだろう。池田にとって渚はそうした間主体的主体同士の出会う、生命的テンションに充ちた場、ということになるだろうか。

 とにかく、こうして他者に向かって自分の感覚を全開させながら渚を歩く池田の姿とワンセットになった、この言葉は池田の創作の大前提だ。

– 池田の見立て/逸脱 –

 ところで私は、2001年、地元御宿町の美術館、月の砂漠記念館における池田の個展『スクラップ・ワンダーランド』のパンフレットに、次のように書いた。

 「それは、人間である鳥、魚である人間、人間である機械。つまり、人間世界に対する池田のシニカルな眼差しに写し取られた、滅法楽しくて、屈託のない一場の人間喜劇。しかしふと、それら魚と見えていたもの、女、あるいは男と見ていたもの、などなどが、ある時、海岸に漂着し、そして池田の卓越したウイットによって、一つの芸術作品へと丹念に転生させられた生活廃棄物の残骸に依るものであることに気付く時、それは必ずしも池田の当面のテーマではないにしても、その一方で、地球生物の生存そのものをさえ危うくしかねない永遠の渇き=消費欲望の在り処を見る思いがするのだ」と。

 そのとき私は、人間や自然の生物、あるいは機械のはてまでもが往き来する、池田の神話的「見立て」の世界をそこに見ていたのだが、いずれにしても、世界中のさまざまな時空間から漂流して、ただいま池田の足もとに流れ着き、そのような邂逅をはたした漂着物たちに、池田は更に幾重にも見立てを仕掛けてゆくのだが、実はこの見立てという作業はもう一つ「逸脱」という行為と裏表になっており、そのために、この世のあらゆるものがやがて背負うであろう「廃棄物/スクラップ」という文脈に対しても、そのつど逸脱が課せられ、廃棄物から芸術作品へ、「人間である鳥、魚である人間、人間である機械…」へと逸脱/転生のダイナミズムのうちに、やがてIKEDAワンダーランドの住人として、新しい生命を獲得することになるのだ。

– 見立て狂いの大首絵 –
蘭喰いハーちゃん
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 蘭喰いハーちゃん

 「見立て」といえばかつて草森紳一に江戸の見立ての粋を集めた『見立て狂い』(1982/フィルムアート社刊)という好著がある。

 私は池田の作る、人物にしろ鳥や魚、あるいは怪もの、といった異類にしろ、どちらかというとクローズアップされた作品が好きで、たとえば「蘭喰いハーちゃん」。これなど一見して判るように、この人物? の、瞳孔を持たない、それでいてこの世界の一皮内側を見透かすような目、何かの動物の、歳古りて根元の緩んだ乱杭歯を象徴的に並べたからだ全体が湛える毒気! その内側にある筈の彼の見立て/逸脱のメカニズムが冷ややかに発光しているかに見えるこのクローズアップは、まさに大首絵! これぞIKEDAワンダーランドというテーマパークの名優たちの大首絵というに相応しいものだ。となるとそれは、何といっても写楽。どこか謎めいた池田の創作の在り方を考えると、それもあながち言い過ぎではないのではないか。これなども何かの機械の部品で人物の顏に見立てているわけだが、だから顏そのものが極端に歪曲、いや歪曲ではない。池田の場合「本来的なかたち」が一方にあって、それを芸術家の作為によって「歪める」いわゆるデフォルメ、といったものではなく、もともと決まってしまっている既製の形が先行しているのであって、だからそういう顏のもの、として最初から構想されたものだ。それにもう一つ「ど忘れ」を加えてもいい。もっともこの作品はいったん仕上がったオブジェをさらにデジタル化して、彼がデジタル画として近年頻りに発表してきた平面作品だが、何かの部品だったこのモノが幾つか組み合わされて、それらが一つのファンクションをもって生きていたかつての様と、その上を襲った激しい時間と海の流れをさえも、つまりその文明ごとそこに抉り出してそれを人物の個性として描き出す、まさに「大首絵」!

ボク、歯医者さん苦手なの!
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 ボク、歯医者さん苦手なの!

 「ボク、歯医者さん苦手なの!」でも、多分これも何かの機械の一部分なのだろうし、そして池田自身にもそれが何の機械なのかも判らないままに、そこに子供の顏を見立てて、苦手な歯医者の椅子に座って、キーッツと歯を剥き出しているさま(と鑑賞者には見える)が見事に捉えられている。そして逆立つ髪。歯と見立てられた機械の部分と、上部の目に相当するパンチの穴の絶妙な位置関係と、いったい機械の部品というのは、こんなにも都合よく、人間の顔に似ているものなのか(と第三者は訝る)。もとの素材全体が持っている金属の質感やかたちの硬質な、ぬめっとした表情も加わって、通常歯科医院に定番のあの金属製の責め道具のような器具を連想させて、歯医者嫌いの少年の表情を見立てた池田の想像力に、ほとほと感じ入る他はない。「仮面の祝祭」などでも、板きれや金属部品を組み合わせてそこに顏ならぬ仮面を見立てるのだが、仮面の中央にはなんと動物の骨らしきものを組み込んで、仮面の持つ異界的鼻梁を作り出している。そしてついに廃棄物と化した獣骨とか機械の部品とか、といったこの時代の毒の重みを、一見「しゃらくさい!」とばかりに、何とも軽妙にユーモラスにイナしてさえいるではないか。これはやはり写楽のものだ。そして、写楽の生きた世界が歌舞伎という”河原”なら、池田の創造の場は”渚”。ともにこの世の辺縁のもの。と、一応は言えるのだが、この先にも述べるつもりだが、池田の場合には、すでに、その”辺縁”を創り出した表現の特権的王国そのものを相対化しているわけで、そこに池田の、写楽とは違った今日性を見るのだ。


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