“クローンド・ヴィーナス”のワークショップ2

「悟空よ!」について
― 制作のストーリー ―

 いろいろ考えた末それを以下のような三つの段階に整理してみました。
第1段階:まず生徒自身にコンビニなどで段ボールの空き箱をゲットしてきてもらって、その段ボール箱に各自ドローイングをする事から始める。
第2段階:描き上がった箱の綴じ目を解いて、一枚の平面に展開し、自分が描いてきた絵の総体を改めて捉えなおす。
第3段階:今度はそれを思い思いに切ったりちぎったり、してその断片を張り合わせながら、再び今度は別の平面なり立体作品を作ってゆく、という三段のシステムです。

― 第1段階/なぜ段ボール箱なのか/絵画を生きる ―
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 まずここで使った段ボール箱は、六面体―つまり6つの平面を持ちますが、これは絶えずどの面かが床に接しているか、向こう側に廻っていて一度に全部の面を見通すことが出来ないもの、という意味のものです。同時にそれは私達が日常目にする”世界”、一度に全部を見通すことが出来ないこの世界、とか、一瞬の未来に何が起こるか見通せない私達の”生”の表象でもあります。

 一方、街のスーパーや量販店などからゲットして来た段ボールの空き箱には、たいていの場合、例えば産地からキュウリやトマトといった農産物や、ティシューとかシャンプーなど日用品の輸送に使われたものなので、そうであれば、それなりのデザインがすでに箱の何面かに印刷されています。

 生徒にはまず今自分が目の前にしている箱が、単なる箱ではなく、自分たちの日常生活に深い関わりのあるものだ、ということを知ってもらって、その表面のデザインを自分なりに捉えて、そのデザイン的要素を自分がこれから描こうとするドローイングの要素に変えながら描き次いでいきます。

 全部を一度に見通せない段ボール箱を前にして、そこに自分のドローイングを描いていく、ということは、定かではない自分の一瞬の未来へむけて、一瞬前の手の記憶を紡ぎながら、自分の力で自分を創り出してゆく、そういう意味を持っています。つまり私達には、ただ待っていればやってくる未来、というものは無く、我々の生は一瞬一瞬を自分の未来に向けて創造して行くことで、はじめて自分の生としての形を成さしめる、というものです。ですから全部が見通せない段ボール箱に描いていくことによって、絵画という”美術作品”をつくるというよりは、このワークショップの全体で、生徒自身の”生”をそこに”創り出して”いく、つまり絵画を”生きる”という、このことこそまさに私の”クローンド・ヴィーナス”の方法そのものです。

 そのためには「絵は白い紙、キャンバスに、自分の心の”内面に抱く”何かのイメージを描くもの」という「絶対的な自分」を基にした従来的な考えをいったん保留して、自分を、段ボール箱にすでに施されているデザインと自分、という”関係的な自分”として捉え直すことで、自分中心の自分を相対化し、世界の大きな編目の中の一つの結節点としての自分、として捉えなおすということが必要になります。

― 第2段階/箱の綴じ目を開く/全体を見通す視点 ―

 そして第二段階で箱のとじ目を一カ所解いて、その立体の箱絵を一枚の平面に展開してみます。それまでは二面かせいぜい三面くらいしか見渡せなかったものが、その段階に来て初めて自分が描いてきた作業を全体的に、つまり神の目で見渡せることになります。立体物であったときは相応の脈絡を持っていると思っていたはずのドローイングですが、平面に開いて改めて見直してみると、そうした脈絡は当然ながらそれほどスムースなものではなく、至る所で自分がして来たことのギャップや段差、唐突に終わってしまう線や、面や色彩の隣り合わせの違和感など、予想を超えたことが起こっていて、その波立ちへの戸惑いと新鮮な驚きに満たされます。

― 第3段階/不条理を超える生 ―

 そして第三段階では、その平面のドローイングを、自分の好きなところへナイフを入れ、或いは手で破いたりして、切り刻んでいくように促します。当然これは子ども達にとってはかなり不条理なことで、一斉にブーイングが起こります。せっかく描きあげたものを突然破かせられるわけですから無理もありません。これはその前の段階、描き上げた段ボール箱を平面に開くときにも幾らか起こりましたが、子ども達は開くことによって起こる新しい視点への興味を感じ、難なく取りかかったものです。しかし今度は超えるべき段差が大きすぎるのかもしれません。せっかく作り上げて来たモノやそれに込めた命を全否定されるような不条理感。これは私自身が自分の作品にナイフを入れるときにも、ふと込み上げてくる思いでもあります。それとおよそモノを「壊す」とか「紙を破る」とかいうことにつき纏う不道徳的、反社会的な匂いを感じ取るということもあります。

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 もちろん子ども達にはさまざまにプランの説明をし、例えば有り合わせの新聞紙などを静かに破いたり、モシャモシャに丸めたりして、紙が発する音や、モシャモシャの紙の形の不思議さを見せながら、子ども達の持つとらわれの気持ちを相対化してゆきます。

 そうして出来た切れ端、線や面、アクションのギャップや、違和感を秘めたその切れ端を、新しく捉え直しながら、なるべく遠くの断片と、出来たら隣りの友達の切れ端と交換したりしながら、そうして出来る今までとは違う脈絡を生み出すように繋ぎ合わせていきます。

 勿論ここでどうしても破りたくないという子どもには、それはそのままさらに完成させるようにしますが、感動的なことは、そういう子どもでもそこで仕上がり、というのではなく、平面に開いた時に見たギャップや段差、つまり混沌に満ちた画面を、一つの統一的な画面として新しい脈略を創造して行くことです。

 こうした遣り取りの中で子ども達は、紙を前にしたときに、それを破くということの快感とか、折ったり汚したりしたいという行為の誘惑を、むしろ紙の方から、絵の具の方から促されるように敏感に反応して、しかもそれを躊躇無く、的確に自分の表現に変えてゆく、子ども達の激しい力を目の前にしてこれも感動的でした。

― 私自身に課した三つの誓い/悟空的息の吹きかけ ―

 実は私はこのワークショップを始めるにあたって予め心に決めていたことがありました。それは
(1)何が起こっても決してそれを「ダメ」とは云わない。
(2)決して「上手だね」とか「奇麗だね」とかいって、たとえ励ましのつもりでも、子どもに擦り寄らない。
(3)その代わり、子ども達の作業のひとつ一つを、私の言葉をもって捉え返して投げかけること、の三つです。

 例えば、ある生徒は、段ボールの表面の一枚を剥がしては、その裏側に潜む”うねうね”を剥きだしにして、その上に刷くように筆を動かしながら絵の具をつけていくことで、画用紙とは違う、段ボール特有の畝の線が際だたせられることを発見して、夢中になる生徒を見つけたら「中に隠れていた”うねうね”が、クレオンや筆では引けない平行線をつくれたね」とか。

 また、箱の面に強く鉛筆やクレオンを走らせて、箱がたてる音を伴ったドローイングを無心に繰り返す生徒。つまり段ボール箱とドローイングという身体行動があらわにした音具という別な可能性を導き出しているわけで、これは箱の中空という性質と段ボールという素材の中に潜む”うねうね”とによる効果が、ドローイングの身体行動から、音を出す身体行動をうみだす、という無意識の発見。私は空かさず言葉をかけます。「なあーんだ絵を描いていると思ったら、君のは音楽でもあるね」というようにです。つまりゴクウの後ろから悟空である私の魔法の息をフッと吹きかけてやるのです。

― 創造の円環運動/生の円環運動 ―

 するとそれを受けた子どもは、今度は反対に「音を出す」というヒントの方から自分の絵の描き方を創り出す、という転倒が起こって、それからそれへと別の表現をつくり始める、といった変化を生み出して行きます。

 「創られるものは、次の何ものかを創り出す為に創り出される」という名高い言葉が有りますが、まさに生命的な創造の円環運動を、一人一人がこのワークショップによって、自前の生の歴史として創り出して行く、ということです。ただしこの円環運動は、再び元の所にもどる、というのではなく、そのつど幾らかずつ位相を変えながら、大きく捉えた時に円環という形態をなすようなものです。そうすることで、一人一人の小さな水路が、絵画一般としての”大きな流れ”に繋がっていく、という経験を果たす(恐らく大方は無自覚のうちに)のです。

 子ども達はそうした自身の上に起こる出来事の、瞬間瞬間への興味に導かれながら、全身、手も足も絵の具だらけになって、それをそのまま段ボールの画面に押し付ける者、勢い余って友達の顔にべったりと行ってしまったり、そのうちに着ているシャツもズボンもべたべたに染め上がっていき、まさにデオニソス的な光景です。それでも決して「ダメ」とは云いません。何をやっても「叱かられない!」なのです。

 練馬三小の場合には父兄の見学もありましたが、「ふだん家ではこういうことはとてもさせてやれませんから・・・」と、すでにあきらめ顔なのでした。

― お伽噺を超えて 悟空/ゴクウ劇場 ―

 同時に始めにも書いたように、私の”クローンド・ヴィーナス”は、もしそう云わないとすると孫悟空の「分身の法」とこそ云うべきもので、であればこの光景こそたった今、悟空である私が息を吹きかけて生み出した(コピーした)無数のゴクウたちが、そうした私のやり方に倣って、たくさんの作品を、しかも無心に創り出していく、そんな光景の、そこに立ち現れる生徒たちの柔軟で瑞々しい”生”のあり方に、とにかく大感激なのでした。

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 特にACACによる青森市三内小の3年生に対しては、体力的な理由から段ボールの箱ではなく、やはり白い画用紙に描いてもらうことにしたのですが、そのとき悟空の体毛に見立てた私の絵の切れ端を予め用意し、その中から自分の好きなものを選んで、その画用紙の上に悟空の体毛である私の絵の切れ端を置いて、そこから描き始めてもらう、という方法(クローン)にしたものですから、私にとっては、よけい悟空の”分身の法”感覚に満ちたものとなったのです。

 ですからその展示に於いても、練馬、青森の両展覧会とも私の作品と子ども達の作品を一つの壁に混在させて展示したことはいう迄もありません。そしてこれは、これまで続けて来た私の「”クローンド・ヴィーナス”展」の新しい局面を創るものとなったのです。

 ここにおいて、もしかしてこのワークショップは、私の今までの”クローンド・ヴィーナス”とか”孫悟空”という単なるお伽噺を超えて、ワークショップ全体で最も進化した私の「絵画」になったのではないか、と密かに自負しているのです。

 それにしてもこの人間の存在とは、そして私とは、果たして何なのでしょうか。

*この文章は「私達の教育改革通信/96号」に寄稿したものを、転載させて頂きました。
http://cert.kyokyo-u.ac.jp/oka-index.html

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