ことばという怪獣の みずみずしい卵

~秋山陽展『器官だけの生きもの』焼きものの中心から~
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Metavoid6/2005年/54(h)× 84(w)× 60(d) *写真は個展のカタログから

 う! コレ動いている? もちろんこれはちょっとした錯覚なのだが、久しぶりに今回、京都の焼き物作家・秋山陽の作品を見せてもらって、そんなふうに、思わず目を凝らしてしまうのでした。些か後追いの記事なのですが、それでも皆さんにぜひご紹介してみたいと思います。

 ちょっとお断りしておきますが、秋山さんは焼きもの作家つまり陶芸家ということですが、作品を見ても判る通り、いわゆる陶芸というよりはむしろ、彫刻とよぶ範疇のものです。粘土や轆轤(ろくろ)を使って形を作り、それを窯で焼く、つまり「焼きもの」という”方法”を使って作る彫刻、といえるものなのです。そういう秋山さんの仕事には、当然、陶芸という領域を広げると同時に、彫刻という境界をも拡張することになる、という興味深いことが起こっているのです。

 そしてさらにもう一つ、これが大事な点ですが、私達の言葉という文化の表層を操りながら、それを支えるこころの深層へと私達の視線を押し広げるという働きをも果たしながら、これは、そこから作品を生み出す、という極めてまれな仕事だと、私は見ているのです。

― 動いている内側/外側 ―

 ”動く”といっても、ちょうど手袋か靴下を中表に裏返すような、それが目に見えぬ僅かな速度で、じわじわと止めどなく、ただ繰り返されているような感覚なのです。表がいつの間にか内側へとずるずる繰り込まれていって、それに連れて今迄外側だった面が内側に繰り込まれていく・・・。

 もともと内側と外側では面積が違うので、オーガニックなそういう動きのために、表面に強烈な亀裂が出来ています。これはいったんシリンダー状に成形した陶土を、無理に? 表/裏に反転させて作るもので、その分厚い亀裂がこれらの作品の強烈な造形表現となっているものです。それがあたかもひとりでに動いているかと錯覚させたようなものが、こうして生まれているのです。

― 器官だけの生きもの! ―

 しぜんに動く、という事であればそれは何かの生きものなのか。生きものといってももとよりシリンダーのことですから、体の中になにか内側としての臓器とかを持っているというようなものではありません。

 例えば頭蓋の中に脳が詰まっていて、そのための頭蓋という外側であるとか、胸郭という外側の中に肺が動いていて、さらにその内側には空気という外側を抱え込んでいる、というように何か内容物が詰まっている、というのではなく、どちらかというと私達の胃や腸といった消化器官のような、更なる器官という内容物を持つことのないひたすらな器官、しかもこの場合はかなり変形されたチューブ/シリンダー、或はその断片という感じなのです。考えてみると胃や腸といった器官は、私達の身体を抜く一つの外側ともいえるものです。そのように、どの作品も、もしこれを生きものとすれば、”器官”だけの生きもの(そういうものが存在するとして、だが)というように見えるのです。

 なおよく見ると、或るものはその内/外反転運動の中で生じた些かのズレによって、そのズレた部分では、内側の面と外側の面が共存してしまう、というような遺伝子的?なエラーでも起こったかのようなイメージなのです。

― 表現のもう一つは焼きものの中心部から ―

 実はこれをシリンダー要素の表現とすると、秋山の作品にはもう一つの、焼きものの基本的な方法である轆轤による”鉢”或は”皿”とみえるものの成形から作り出す独特な表現があって、作品はその二つの異なるものの有機的な結合からな成っています。それは轆轤の特性を巧みに操作して作り出す表現です。

 秋山によると、まず轆轤の上に土塊(つちくれ)を乗せて、一枚目の鉢をひきあげ、その鉢にさらに別の土塊を叩き込んで、そのまま続いてもう一枚の鉢をひきあげて、ここに二枚重ねを作ります。そして三枚四枚・・・十枚というように重なった固まりをつくる、というのです。つまりそれが只一枚の鉢だけであれば、さして内側/外側という意識も起こらないのですが、さらに別の土塊を叩き込む事によって、アクションをともなった強烈な内側性が立ち上がり、その叩き込まれた土塊がもう一つの外側を作り出す。というようにして全体で内側/外側の反転連鎖が一つの固まりを作り上げていくという事です。

 ご承知のように轆轤という道具は極めて強い中心性を持つもので、その回転の中心を得られないと土は引けません。この作品の興味深いところは、この轆轤という道具の中心性という理法を引き受けて、しかしそれを少しずつずらしながら、つまり一度引き終えた鉢を少しずらして、その鉢の中の、鉢の中心ではなく轆轤の中心点へ向けて、次の土塊を叩き込む、ということをするのです。そうする事で、次の鉢は前の鉢とはズレた位置に中心がシフトされて改めて一枚の鉢として、しかも前の鉢と一体となった鉢という不思議が引き上げられる、という事になります。

 もちろんその上に焼成という焼きもののもう一つの中心も加わって、こうした中心の無限の掛け合いとズラし(によって起こる無限の多中心)。シリンダーの単層的な反転運動が、異質なこの横向きの重層的な運動を抱え込むときにも復(ま)た引き起こされる幾つものズレ、或は遺伝子的なエラー、の感覚がこの作品の上に、一つのものとして融合される時、内/外といった二項対立の図式を乗り超えて、ことばという怪獣の卵の、みずみずしい生命の波動を発するのです。

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Metavoid7/2005年
81 × 74 × 57
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Metavoid7/2005年
81 × 74 × 57
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Metavoid8/2005年
56 × 76 × 72
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T-52
41 × 37 × 33
*写真は個展のカタログから

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