こうした、アレントによるアリストテレスの曲解は、ロールズも共有していており、それがまたロールズの正義論に致命的問題性を生み出していると思われる。なお、ここで論じるのは、ロールズの『正義論』のみであることを断っておく。ロールズ自身は、その後、初期のこの『正義論』から大きく展開しているからであり、しかし他方では『正義論』自体が一個のリベラリズムの政治哲学の体系書であることは否定しえない事実であるから。
さて、ロールズの『正義論』(The Theory of Justice[1971])は、彼自身も述べているように、アリストテレスの正義論の根幹である配分的な正義の議論を継承したものということができる。
しかしながら周知のように、ロールズは自らの理論の根幹、原初状態における正義の二原則の理論的前提をロック、カント以来の社会契約論の発想のうえに構築された原初社会における合意理論に求め、アリストテレスの正義論を全体としては、目的論的理論として拒否している。
その理由を、目的論的理論は、善と正義を直接的に連続させ、社会を全体主義的に傾斜させるという点に求めている。
ロールズによれば善は、第一次的には、狭義には、個人の人生の個人的便益の自由で合理的な選択意志の発動の対象物であり、原初状態における正義の合意ののち、この正義の原則に照らされてようやく、完全な意味において、公共的な善となる。この善の二重の性格をアリストテレスは理解しておらず、アリストテレスにおいては、当該社会の是認された徳の達成が善とされ、それの直接的な拡大が正義の達成ということになる、と。
ロールズが強調する、善に対する正の先行という議論は、よく秩序化された社会では(in a well-ordered society)、個人の善も、それ自体では、まだ狭義の意味(皮相な意味)において(in the thin account)個人的便益の合理的な最大化であるにすぎないが、社会的な正義の準則によって是認された時、始めて完全な善になる、という理解を前提にしており、また、その意味において正の中立性を主張することになり、自由で平等な個人の善をバランスよく保障しようとする思考である。しかしこの理論の原点である原初状態(the original position)における個人の善が追求する目的は、ロールズにおいてはあくまで、他者に対する配慮を持たない個人の自由で合理的な選択意志の発動の対象であった。意志はここでは、あくまでも個人の個人的便益の拡大を図る目的──手段の合理的選択ということに固定化されており、アリストテレスにおける、目的間の選択に発動される根源的意志の選択可能性を忘却しているのである。
こうしたロールズの見解の背後には、個人の目的は、あくまで個人の個人的な便益の拡大であり、この目的を達成しようとする、自由な個人的な意志の発動を、適正な社会的制度の中で生かしていこうとする、近代欧米社会が蓄積してきた人間観が前提的与件として横たわっている。しかし他方で、それは、古典古代思想、とりわけアリストテレスの政治哲学への誤解のうえに立つものであり、またそれゆえにロールズの人間理解、とくに意志理解の狭隘化を引き起こすことになった。
他方、サンデルにおいては、ロールズの正義論の個人主義的傾向を批判するあまり、ロールズ批判の原理として依拠するアリストテレスの目的論への理解が、個人の自由な意志の発動を許さない理解をもたらすことになった。ロールズもサンデルも、アリストテレスの根源的意志論、予感知、直知、またそこから出発する目的間選択意志論を忘却した、ということができる。