もちろん、サンデルの見解も基本的にはこのような理解の線上にあるといっていいだろう。サンデルはこの共通善の政治の復権こそが、アメリカの正義の実現にとって決定的であると述べ、具体的には、経済的富の効用や個人的自由の賛美ではなく、全体への配慮、愛国心のような献身的犠牲、兵役志願、公共道徳、市民道徳、正しい結婚、等を政治の課題としなければならないという。しかしながらサンデルにおいては、こうした共通善の呼びかけは、個人の内在的意志の展開と結びついていない。
サンデルもこうした批判を自覚して、それへの応答をマッキンタイヤーの、物語的存在(narrative being)としての人間理解に求めている。この見解によれば、人間は特定の社会において確かに行為を選択する。この点ではマッキンタイヤーやサンデルも人間の選択意志を重要視する。しかしこの場合の選択は、無前提の選択ではない。特定の個人は自分の置かれた社会的位置や社会的伝統のなかで形成されてきた物語のなかで、その物語の解釈における選択的行為を行うのである。
確かに、人間存在を物語的存在とする理解には、一定程度選択的意志の働く余地が含まれている。しかしながらサンデル自身も指摘するように、家族や国家における連帯的な道徳的義務は、究極的には個人の合意(consent)に基づかないものとされる。
物語的存在である人間は、その物語を解釈していく選択的自由を持っているのではあるが、この物語の根本的前提は、所与のものとして前提されるということであろう。この前提が、ある場合には、歴史的伝統という事柄であり、ある場合には基本的な道徳的命題として当該共同体の本質的目的として前提されるということなのであろう。いずれにしても、基本的な共同体の存続に関わる連帯は、合意や契約の関与することのない所与ということになる。
サンデルは、上記の最後に、自らの政治哲学的理念の開陳に、共通善の政治(Politics of the Common Good)、特定の道徳的信念、美徳の政治(virtue of politics)を呼びかけているが、もし共通善が、当該の共同体の成員に内在的に合意されないものであったら、それを善と呼ぶことはできないのではないだろうか。これはアリストテレスの善規定、目的規定に反するであろう。サンデルはアリストテレスを再興しようとするのか、批判の対象にするのであろうか。