サンデルの正義論講義をめぐって4-3


──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝(岡山大学教授)
[4-3]意志の二重性、知性の二重性

 こうしてサンデルの議論は、カント、ロールズの契約論的、主意主義論的正義論を批判して目的論的正義論を展開するのであるが、この目的論的正義論の拠り所となっているアリストテレスの目的論、善論それ自体の理解と背馳する見解となっているのである。

 ではこの難点をどう突破すればいいのだろうか。

 この問題において決定的に重要な点は、アリストテレスにおける、人間の知性と意志の二重性の理解である。その点から見て、決定的な箇所を提示しよう。

「私が法といっているのは、1つは特有な法のことであり、今1つは共通の法のことである。特有な法とは、それぞれの国家が自分たちの生活との関連で制定した法で、これには書かれていないものと書かれたものとがある。これに対して、共通な法とは、自然本性的な法である。人々がお互いに共同生活を営むとか、契約を交わすということがない場合でも、自然における共通の正しさというとか不正といったものが存在していて、すべての人々はそれがあることを予感知(presageful-sensitive-intellect)している(マンテウオンタイ パンテス)」(『修辞学』第1巻13章1373b7)

 ここで使われている「予感知する(マンテウエスタイ[manteuesthai]。make presageful -sensitive intellect[Princetonn versionの英訳ではdivine])」とは、共同生活(association)に入る前に、また契約(covenant)を交わすことがない場合でも、お互いに何が正であるか、を人々が知る知的能力として言及されている。しかもその際に知られた正の本質について互いに了解しあっていることが含意されている。正とは自己と他者との比例的関係であるからである。これをもって予感知的合意とするならば、アリストテレスにおいては、合意は二重に存在していたということになろう。具体的な約束を相互に取り決める契約における合意と、予感知(マンテイア)としての合意である。

 ところでこの「予感知する」という動詞は、原義として、占う・予見する(prophesy, presage)、神託を受ける・下す(consult an oracle)という含意と、匂いを嗅ぎつける(get scent of)、という含意の双方を含んでいる。すなわちある種の嗅覚的な感覚的要素を持ちながら、同時に、通常の人間の論理的理性を超えていく知性を意味している言葉である。

 それでは、こうした予感知という知性の存在は、アリストテレスの知性理解においてどのような位置に置かれているのだろうか。そもそも、アリストテレスにおいて、人間の知性(ロゴス[logos-reason])は厳密には二重に把握されていた。物事を直観的に把握する知性を直知(ヌース[nous-intellect])とし、これはまた倫理の根本命題(アルケー[arche])を直観的に把握するとされる。他方、直知によって把握された基本命題に基づいて論理力、推理力を用いて展開する知性を狭義の理性とするならば、予感知は、この直知に親和的であるといってもいいであろう。直知は、何らの論理力ももちいずに、感性と一体になった知性であるとされるからである。

「直知にいたっては両様の方向において究極的なものに関わっている。それは、すなわち最初にくる諸定義(ホロイ)にも関わるし、また最終的な個にも関わるのであり、これらについての認識はいずれもロゴスの関知しないところに属する。直知は、すなわち、それが論証に携わる場合にあっては、もろもろの不動な最初にくる諸定義に関わるのであるし、またそれが実践的なそれに携わる場合にあっては、最終的な、他の仕方であることも可能な個別に関わり、したがってまた小前提にも関わる。・・・それゆえこうしたもろもろの個別的なるものを認識する感性知(アイステーシス[aisthesis])を持たなくてはならない。このような感性知を行うのがすなわち直知の働きにほかならない」(『ニコマコス倫理学』第6巻第11章1143a35-b5)

 それゆえ、アリストテレスの人間知性論において重要な点は、広義の意味において理解される理性(ロゴス)には、狭義における、感性知ともいうべき直知と、論理力・推理力としての理性が区別されたうえで包含されていることであり、この観点からみれば、予感知は、感性知であるとされる直知と親和性のある知性である、ということである。この点で予感知は直知と同様に究極の個的存在に関わる知性であるとされる。

 また、さきに言及されているように直知は、最初に来る定義に関わるとされているが、この定義ホリスモス(horismos)とは、「何であるか(ト・ティ・エーン・エイナイ[to ti en einai])」=実有(ousia)を言い表す説明方式であるといわれている以上(『形而上学第8巻第1章』)、直知は対象の実有に分け入る洞察知という性格をもっている。

 他方、先に予感知に関する引用で紹介した箇所は、この予感知が、自然本性的で共通に妥当する法の存在を知る知性として紹介されている。それゆえ、対象の何らかの本性を洞察する知性として、直知と予感知とは共通の性質をもっているということができるであろう。アリストテレスによれば、この予感知が働くことによって、人間は、共同社会に入る前に、共通の正義の理解に到達する、とされる。こうした予感知の働きは、アリストテレスによれば、人間における善の認識にも作用している、とされる。

「我々の予感知するところによれば、善とは何らか本人に固有な、取り去ることの難しいものでなくてはならない」(『ニコマコス倫理学』第1巻第5章1095b26)

 世間の一般的見解(ドクサ)とは別に、そのいわば基層として、予感知による善理解が存在するのである。もしそうであれば、共通善もまた、世間一般に抱かれ、明示的に了解され、制度化された共通の善とは別に、その基層として、共同の予感知からする共通善の世界が存在することになるだろう。そしてこの予感知が、互の正についての直観的合意を含むならば、共通善もまたある種の直観的合意に支えられていることになる。

 こうした理解は意志論にも当てはまる。アリストテレスにおいては、意志は、根源的意志(ブーレーシス[radical will]。願望。Princeton versionではwishと訳される。ラテン語ではvoluntas)と選択意志(プロアイレシス。Princetonversionではchoice。ラテン語ではelectioと訳される)とに区別され、根源的意志こそが、究極目的(テロス)に関わり、それへの達成手段に選択意志が関わるとされる。先の例によれば、殺人禁止が正であるという合意を予感知あるいは直知が獲得するとすれば、殺人禁止を意志することはこの根源的意志にとって達成される。こうした根源的な合意があり、そのうえで具体的状況下での殺人回避の選択的意志が働く。この二重の意志こそが、一般的な実定的な法の基礎になっているというのがアリストテレスの理解であろう。

 こうした観点から見ると、今日の代表的な政治哲学者ハンナ・アレントのアリストテレス意志論理解には大きな問題点が含まれており、それを指摘しておくことは、アリストテレス意志論理解をより正確ならしめる一助となるであろう。

[4-4]アレントのアリストテレス理解の問題点へ続く