ハンナ・アレントは、『精神の生活』(The Life of The Mind[1971.Vol.1.2.U.S.A])において、アリストテレスの意志について考察しているが、そこでは、「アリストテレスは意志の実在については認識する必要がなかった」(Vol.2.p.1.)とされ、行為の選択的自由を意味するとされるプロアイレシス(proairesis)は、眼前にある手段の選択的自由だけを意味しており、真に内面的な、目的そのものを選択する自律的な意志についてはまったく論及されることがなかった、という。
アレントによれば、意志の自由というものに近い概念として理解されてきたこのプロアイレシスは中世でリベルム・アルビトリウム(liberum arbitrium)と訳されて普及したが、それは、あくまでも目的・手段の合理的選択意志にすぎず、「何か新しいことを始める自発的力や、それ自身の本性によって規定され自らの法則に従うような自律的能力」を扱うわけではない、とされる。
しかしアリストテレスにおいては、さきに見たように、目的は、確かに人間にとって自然本性的なものであるが、各人にとって自明であり、選択できないもの、というようなものではない。目的は人間にとって、根源的意志(ブーレーシス[radical will])の対象であり、またそれが意志の対象である限り、意志が理性的欲求であることを考えれば、この目的が何であるか、という問いの対象になるのである。確かに幸福は万人にとり究極の目的ではあるが、幸福の内実については多様であり、そのなかでいかなる幸福を目的とするかは、ある意味で選択の問題となる。目的は、アリストテレスにおいて、人間社会における善としては、意志の選択的な対象であった、といってもいいであろう。これを、目的手段間の選択と区別する意味で、目的間選択の理論としておこう。根源的意志は予感知(マンテイア)によって知られた目的から出発して、自己内の内面的対話や他者との対話を通じて、目的間の選択を行い、そのなかから適正な目的を選択するのである。
アレントの誤読は、このアリストテレスのブーレスタイ(根源的に意志する)を「あるものを、より望ましいものとして観ること」(ibid.,p.15)と理解し、その言葉が根源的意志であることを看過したことによるのであろうし、また目的──善の重層的な把握、目的間選択の構造を把握し損なったことに起因しているのであろう。
アリストテレスにおいては、人間の行為の目的は、それがその行為の主体者によって意志される時に善きものとされ、目的に関する選択の対象となるのであり、この目的を選択したのち、それを特定の行為の場で実現しようとするとき、目的──手段の選択的意志(プロアイレシス)が発動される、と解されるのである。その意味において、アリストテレスにおいては選択もまた二重に行われているのである。ただし行為の究極目的に関わる際、この根源的意志が発動されるが、その際、この根源的意志は、人間の予感知、直知と共同して人間や自然の自然本性を、また人間社会の自然本性的秩序を把握しようとする。