さて、アリストテレスの目的論を検討する際、もっとも注意すべき点は、この目的自体がある種の重層性を帯びていることである。
アリストテレスの理解するところによれば、「万物は、つねに運動しており、それ固有の形相にしたがってその形相の完成を達成するべき固有の目的をもっている」とされる。その万物がもつ目的には、そのもの自体の完成目的という意味での内在的目的という側面と、世界全体の一定の秩序への完成への関与という意味での外的目的との2種類があるが、いずれにしても万物は自ら固有の目的を志向している。この点からみれば確かにアリストテレスの目的論は、ものの本質に内在的な目的論ということができる。
アリストテレスの善の定義がそれを端的に表現している。「善とは、正しくも、万物の志向する(エフィエスタイ)ものと言われている」とされるが、この「志向」する対象たるもの、善を、運動する物という視点から見たとき、それは目的(テロス)とされる。
注意すべきは、この万物による善への志向には、事物の自然本性によって種種の層が存在することであり、人間における善志向は意志、すなわち理性的欲求(rational desire)という志向になる点である。人間における目的=善とは、人間の意志を通じて希求され実践される。それゆえ、当該社会の目的である共通善もまた基本的には、人間の共通する意志、共同的意志によって希求されるものであり、人間の意志から離れた超越的な善ではない、ということになるであろう。それゆえ、人間にとって善なるものが人間の意志を通じて追求されるものである、という点において、カント、ロールズの自由意志論重視の行為論はある意味で正当な側面を持っているということができる。
ただしカント、ロールズにあっては、とくにロールズの原初状態における善は、あくまで個人の自己の便益追求のレヴェルにとどまるものであり、そのままでは社会全体の善、共通善に昇華しえないものとされる。カントにあっては、善は、個人が普遍的で形式的な当為命題を為さんとする意志にしか存在せず、共通善はあったとしても、形式的理念的な社会契約という形でしか存在しない。ロールズにあっても善は、個人の意志の対象であり、共通善は、ベールに覆われた個人の合理的で形式的な選択の枠組みの合意、すなわち正義の準則の確立を経て、始めて現実的なものになる。この意味において、正は善に優越性を持つとされる。
しかしながら、アリストテレスにおいては、個人は個人的な善指向の延長線上に共通善を指向するとされる。個々人の意志に即しつつ、同時にそれが共同の意志にまで転化したとき、共通善、共同善が表れる。しかし、なぜアリストテレスにおいてはこの個人的善が共通善へとつながっているのだろうか。
その点を理解する鍵は、アリストテレスの人間理解に求めなければならない。アリストテレスによれば、人間の意志は、個人的な自己の固有便益を求める善の追求と同時に他者の善を求める。人間は個人の善志向と同時並行的に、正と友愛を指向する。ここで注目すべきは、善指向それ自体が重層的であることである。具体的にアリストテレスはそれを以下のように描いている。
それゆえ、アリストテレスの共通善は、自己と他者との利益のバランスを指向する正義と、他者の善を指向する友愛を求める善であり、この善の追求自体がまた追求者の人間的力量を前提することになる。この共通善の志向とそれを担いうる人間の陶冶の生こそが、アリストテレスにおける「品位ある生 エウ・ゾーン(good life)」であった。ロールズに倣って言うならば、ベールに覆われた原初状態の人間は、アリストテレスにおいては、自己の個人的便益の合理的選択のみならず、他者と自己の便益のバランスを指向し、さらに他者の便益を指向する存在であった、といってもいいであろう。