サンデルの正義論講義をめぐって4-2

──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝(岡山大学教授)
[4-2]サンデルの問題点

 もちろん、サンデルの見解も基本的にはこのような理解の線上にあるといっていいだろう。サンデルはこの共通善の政治の復権こそが、アメリカの正義の実現にとって決定的であると述べ、具体的には、経済的富の効用や個人的自由の賛美ではなく、全体への配慮、愛国心のような献身的犠牲、兵役志願、公共道徳、市民道徳、正しい結婚、等を政治の課題としなければならないという。しかしながらサンデルにおいては、こうした共通善の呼びかけは、個人の内在的意志の展開と結びついていない。

 サンデルもこうした批判を自覚して、それへの応答をマッキンタイヤーの、物語的存在(narrative being)としての人間理解に求めている。この見解によれば、人間は特定の社会において確かに行為を選択する。この点ではマッキンタイヤーやサンデルも人間の選択意志を重要視する。しかしこの場合の選択は、無前提の選択ではない。特定の個人は自分の置かれた社会的位置や社会的伝統のなかで形成されてきた物語のなかで、その物語の解釈における選択的行為を行うのである。

「人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する物語的探求(narrative quest)を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるか見極めようとする。道徳的熟考とは、自らの意志を実現することではなく、人生の物語を解釈することだ。それは選択を含むものであるが、選択は解釈から生まれるものであり、意志の主権的行為(sovereign act of will)ではない。目の前の道のどれが私の人生のヤマ場にもっとも適しているか、私自身より他人の目にはっきりと見えることも、ときにはあるかもしれない」(Justice ;What’s the Right Thing to Do? Penguin Books.2009.221-222)

 確かに、人間存在を物語的存在とする理解には、一定程度選択的意志の働く余地が含まれている。しかしながらサンデル自身も指摘するように、家族や国家における連帯的な道徳的義務は、究極的には個人の合意(consent)に基づかないものとされる。

「したがって、人格について主意主義的な(voluntarist)考え方をとるか物語的な(narrative)考え方をとるかを決める1つの方法は、第3のカテゴリーの責務──すなわち連帯(solidarity)や同胞主義(membership)──は、契約主義的用語では説明できない、ということである。自然的義務とは異なり、連帯の責務は個別的であり、普遍的でない、そこには我々が負う道徳的責任も含まれているのだが、この責任は理性的な人間(rational being)そのものではなく、一定の歴史を共有する人間にたいする責任である。だがこれらは、自発的責務とは異なり、合意(consent)の行為に基づいていない。その道徳的重みは道徳的な考察の状況づけられた側面、すなわち、私の人生の物語は、他者の物語のなかに組み込まれたから出てくるのである」(前掲書、ibid.,225)

 物語的存在である人間は、その物語を解釈していく選択的自由を持っているのではあるが、この物語の根本的前提は、所与のものとして前提されるということであろう。この前提が、ある場合には、歴史的伝統という事柄であり、ある場合には基本的な道徳的命題として当該共同体の本質的目的として前提されるということなのであろう。いずれにしても、基本的な共同体の存続に関わる連帯は、合意や契約の関与することのない所与ということになる。

 サンデルは、上記の最後に、自らの政治哲学的理念の開陳に、共通善の政治(Politics of the Common Good)、特定の道徳的信念、美徳の政治(virtue of politics)を呼びかけているが、もし共通善が、当該の共同体の成員に内在的に合意されないものであったら、それを善と呼ぶことはできないのではないだろうか。これはアリストテレスの善規定、目的規定に反するであろう。サンデルはアリストテレスを再興しようとするのか、批判の対象にするのであろうか。

[4-3]意志の二重性、知性の二重性へ続く


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