アリストテレス政治学における「正」の位相4

タクシス(整序)とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝(岡山大学教授)
[4]「正(ディカイオン)」の構造 〜エートス論の視角から〜
アリストテレス政治学における「正」の位相

タクシスとエートス(整序)、
政治学と倫理学の相関の視座より

CONTENTS
[1]問題の所在
[2]訳語の問題
[3]「正(ディカイオン)」の構造
   〜タクシス(整序づけ)論の視角から〜

[4]「正(ディカイオン)」の構造
   〜エートス論の視角から〜

[5]「正(ディカイオン)」の二重性、
   不安定性、倫理学から政治学へ

[6]拡張的転用としてのディカイオン
   〜奴隷制について〜

[7]結びに替えて

1. 徳=自由な選択的行為の所産

 まず最初にアリストテレスにおける徳と訳されるアレテーの意味について整理しておこう。

 アリストテレスにおいては、アレテーとは、なんらかの卓越的力量を意味している。その点においては、目のアレテーが、良く見えることであると同じ意味をもっている。しかし、正義の徳のようなアレテーにおいては、そのものに自然内在的に備わる本性の力量ではなく、人の意識的活動、とりわけ慣習的な活動によって形成されるものである、とされる。

「われわれはもろもろの正しい行為をなすことによって、正しい人(ディカイオイ)となり、もろもろの節制的な行為をなすことによって節制的な人となり、もろもろの勇敢な行為をなすことによって勇敢な人となる。もろもろの国家において行われることもこのことを立証する。すなわち立法者は習慣づけによって市民たちを善き人たらしめるのであり、いかなる立法者といえどもその欲するところはここにある」(『ニコマコス倫理学』第二巻1103a34-b5)。

 しかしながら、この習慣づけは、たとえ立法者の意図が善なるものであっても、市民にとっていかなる点においても強制的な意味をもつものであってはならない。この意味において、アリストテレスにおける徳は、あくまでも、人間の自由な選択的行為の所産として位置づけられている。しかもその意味は二重に解されねばならない。1つは、情念(パトス)が非選択的であることに対して言われる場合であり、2つには、能力(デュナミス)が非選択的であることに対して言われる場合、である。その意味において、徳は、アリストテレスによれば、一種の心的傾き(ヘクシス)と把握される。

「われわれが怒ったり、恐怖したりするのは非選択的であるが、徳(アレテー)はこれに反して一種の選択(プロアイレーシス)なのであり、あるいは選択を欠きえないものなのである。・・・。そのゆえにまた、それは能力(デュナミス)でもない。なぜかというに、われわれがよき人であるとか悪しき人であるとかいわれるのは、単にわれわれが情念を触発される能力を有していることに基づくのではない。さらに、われわれがこれらの能力を有しているのは、われわれの自然本性(フュシス)によるのであるが、よき人となったり悪しき人となるのは自然本性によるのではない。この点については先に述べた。こうして徳は情念でもなく能力でもないならば、残るところ、徳とは心的傾き(ヘクシス)であるほかはない」(『ニコマコス倫理学』第二巻1106a2-10)。

 それでは選択(プロアイレーシス)とは、アリストテレスにおいてはどのように理解されたのか。

「選択ということは、われわれの力の範囲内に属することがらについての思量的な欲求(ブーレウティケー・オレキシス)であるといわなくてはならない」(『ニコマコス倫理学』第3巻1113a10)。

ところが、思量は、目的に関する事柄ではなく、目的へのもろもろの手立てに関する事柄をめぐって行われる。

「目的への手立てについてのわれわれの行為は、選択に基づくものである」(1112b12)
「目的とは、願わしきもの(ブーレーシス)を意味するが、他方、目的にいたるもろもろの手立ては、われわれはこれを思量し(ブーレウシス)選択するのであるからして、こうした手立てについてのわれわれの行為は、選択に基づくものであり、自由意志的、ヴォランタリスティックなもの(ヘクーシオス)といってよいであろう。しかるにもろもろの徳の分野における活動(エネルゲイア)は目的への手立てに関わっている。それゆえ徳は、われわれによって左右される事柄である」(『ニコマコス倫理学』第3巻1113b3-6)。

 こうして、徳とは、その徳の持ち主の自由な選択の所産というべきもの、ということになるであろう。

 徳自体が、こうして自由な、ヴォランタリスティックな選択行為の所産だとすれば、正義の徳もまたそれが徳という特質をもつものである以上、やはり自由な選択の所産となるのである。

「正義といえば、それは、それに従って正しい人が選択に即して、正しいこと(ト・ディカイオン)を行う人だといわれるような、そのような徳である」(『ニコマコス倫理学』第五巻1134a1-2)。

 ところが、先に述べたように、正とは、比例的関係のことであったから、正しい行為とは、自由な選択行為を可能とする人間が、相互にものを比例的に配分する場合に生じる事態といってもよいであろう。しかしまた他方では、選択とは思量的な欲求であったから、上述の事態に生じた正しい選択は、正しい思量的欲求であるということになるであろう。これは、また別の言葉を用いれば、ホーヘルトの規定した権利=正当な要求権とよんでもよいであろう。それゆえ正はいまやその成立の場においては、その担い手の側に即してみれば、権利の集合という事態であり、正の分有が権利となっているのである。

 したがってギリシャ語のディカイオンは、アリストテレスの使用法においては、上述のように単に実定的な法律関係で使用される場合だけではなく、自由意思を持つ行為主体が存在するところでは、一般的にそれが関係、行為、事柄の比例的性格を表現する場合には正という意味をもち、主体的関与を示す場合には権利という意味を持つ、ということができよう。アリストテレスにおいては、一般的にもディカイオンは徳(アレテー)のレヴェルにおいても権利を意味していたといってもよいであろう。

2. 正・権利とは、共同的結合コイノーニアの場、友愛の場の所産

 したがって、アリストテレスにおいては、自由な選択能力を有する個々人からなる共同的関係が存在するところには、正も権利もまた存在することになる。

 しかしながら、この正や権利は、自由身分としての資格を有する市民間の関係以外の人間関係には適用できないものであろうか。先の引用文に引き続いてアリストテレスは次のように述べている。

「したがっておよそこうした特徴(自由人で比例的にまたは算術的に均等な関係)を欠いている人々にあっては、お互いのあいだには市民的政治的な正は存在しないのではあるが、しかしある種の正は、しかもこの政治的市民的な正に類似した正が存在する」(『ニコマコス倫理学』第五巻1134a28-30)。

 事実以下の文章でアリストテレスは、市民的政治的正以外の正の例を挙げている。奴隷主─奴隷間における正(ディスポテイコン・ディカイオン)、父親─子供間における正(パトリコン・ディカイオン)を挙げた上で、とりわけ夫−妻間の正は、市民的政治的正に似たものとして評価したうえで、それを市民的政治的正とを区別して「家政的正(オイコノミコン・ディカイオン)」と呼んでいる。

 こうして、アリストテレスにおいては、自由意志を備えた人間の間になんらかの共同的関係が成立する場合には、なんらかの正が成立するとされるのであり、したがって権利もまた成立すると考えられるのである。奴隷もまたこの文脈においては、道具としての奴隷ではなく、一個の意思を持つ人間として考察される限り、奴隷主と奴隷との間にはある種の正・権利が成立するとされるのである。

 しかしこの点についてはなお論ずべき点があるので、章を改めて取り上げることにする。しかしながら、ともかくもこうした思考は、正と友愛の関係を論じた『ニコマコス倫理学』第8巻においてさらにあらたな視点から確認されるところである。

「始めに述べたように、友愛(フィリア)は正のかかわるのと同じことがらにかかわり、正の見出されるのと同じ人々において見出されるように思われる。すなわちいかなる共同的結合体(コイノーニア)にもある種の正が存在するが、そこにはまたある種の友愛(フィリア)が存在するように思われる。」(1159b26-28)。

 そもそもアリストテレスにおいては、共同的結合体(コイノーニア)は、その構成員が善いと思ったことを共同で志向することによって形成された集団であった。

「あらゆる共同的結合体は、なんであれある種の善を実現するために共同で組織されたものであるから。なぜなら人々はすべて、善いと思われることのためにすべてのことを行うものであるから」(1252a2-3)。

 すなわち個々人の善の追求は、ここでは共同で志向されることによって共同の善が形成されることとなる。その共同の善が、比例的な原理をもつならばそこには、原理的にそこに一種の整序づけ(タクシス)としての正が形成されることになる。いやむしろ比例的関係の原理がなんらかの形で実現されなければ、共同の善も実現されないといったほうがよいであろう。ここでは善と正とが同置されているのである。

「正とは、共同の善益であるといわれている」(1160a13-14)。

 さらにまた上述の文章は、この正の実現は、構成員間の友愛の存在を前提していることを物語っている。根源的には、相互に友愛の関係が存在するからこそ、共同で善を志向して共同的結合体を形成するのであり、相互に友愛が存続することによって、比例的関係は持続的におこなわれるのであろう。しかし比例的に配分することはまた配分されるものが個人に帰属することを前提とする限り、それは人間の個的存在性を前提するものである。それゆえ正は人間の個的存在性と共同的存在性の統一を図る整序づけ(タクシス)であり、一面で規範的原理であり、また他面では関係行為、さらにその行為の帰結としてのなんらかの制度化をそこにみることができるものである。それゆえまた正の存在するところ自己のものを正当に要求しうる権利もまた存在するとすれば、友愛の存在するところ、権利もまた存在することになるであろう。

 以上を別の観点からみれば、正および権利の存在とは、相互に友愛を担いうるという人間固有の特質に根ざした事態であるといってもよいであろう。逆に言えば、正と友愛を担いうる存在こそ人間であり、それらのものを担いうる存在であるからこそ人間は権利の保持者である、ということになるのであろう。アリストテレスにおいてはコイノーニアのあるところ、正・権利、そして友愛が存在しているのである。

 さらにまた、次の点も注目されるべきである。アリストテレスにおいては、国家自体がコイノーニアの一種であり、最基底のコイノーニアたる家族からは始まるおおくのコイノーニアの重畳した全体を包括した最高のコイノーニアであったから、正もまた、重畳した正として存在しつつ、国家の正において最高の正に達するということになるのである。

 こうして、アリストテレスにおいては、コイノーニアの存在するところには、正・権利が存在したのであるが、そうしたことが言いうるためには、人間の自然本性そのものにそうした正・権利のなんらかの内在が前提とされねばならないであろう。以下その点について検討してみよう。

3 自然本性的ディカイオン、正・権利

 そこで今一度徳の特質についてのアリストテレスの叙述を振り返ってみよう。

「これらの徳(アレテー)は自然本性的に(フュセイ)生じるものでもなく、しかしまた自然本性に背いて(パラ・フュシン)生じるのでもなく、かえってわれわれは本性的にこれらのものを受け入れるようになっているのであり、それもただ習慣づけによって完成されるべく、生まれているのである」(1103a23-26)。

 徳そのものは、自然本性的に備わっているのではないが、それを受容する能力は備わっている、というのである。徳の潜勢的受容力というものは人間に内在するといってもよいであろう。こうした視点はさらに『ニコマコス倫理学』第六巻第十三章で自然本性的徳と勝義の意味での徳を区別する思考の中に鮮明に現れている。

「ここでわれわれは、徳について再度考察すべきであろう。というのは、徳は、知慮にたいする如才のなさ(デイノテース)の関係──両者は同一のものでなく、類似のものであるが──に酷似したものが見出される。勝義の徳(キュリア・アレテー)に対する自然本性的な徳(フュシケー・アレテー)の関係がそれである。実際、諸々のエートスの各々が自然本性的に万人になんらかの仕方で存在している。われわれは生まれてから直ちに正しくあるとか、節制的であるとか、勇敢であるとか、その他の資質を具えている。しかしながしながら、それでもなおわれわれは勝義における善を求め、そしてそのようなものが自然本性的に生ずるのとは異なった仕方で我々に具わることを求めているのである。実際もろもろの自然本性的な心的傾き(ヘクシス)ならば、それは子供にも動物にも見出されるのであるが、知性を欠いてはそれらはかえって明らかに有害であるように思われる」(『ニコマコス倫理学』第6巻1144b1−4)。

 この箇所のアリストテレスによれば、徳にはまさに生まれつきに具わった徳、すなわち自然本性的徳(フュシケー・アレテー)と、完成した状態において形成される徳、すなわち勝義の徳(キュリア・アレテー)の2種類がある、とされているが、前者の徳から後者の徳を区別するものは知性(ヌース)との結合である、といわれている。しかしながらこの知性もアリストテレスによれば、生まれつきという意味における自然本性的知性と完成的意味における知性とがあり、これらの知性によって、勝義の徳は完成へと導かれる、とされるのである。

「だれでも自然本性によって知者(ソフォス)になるのではない。しかし明察(グノーメー)や聡明(シュネシス)や知性(ヌース)を有するにいたるのは自然本性によるものだと考えられる。その証拠に、我々はこれらが年齢にしたがって生ずると思っているからである。すなわち一定の年齢になれば知性も明察力も具わると考えるのであって、自然本性(フュシス)がその原因になっているとおもわれるのである。それゆえ知性(ヌース)は端緒(アルケー)でもあり、終極(テロス)でもある」(『ニコマコス倫理学』第六巻)。

 こうして、正への心的傾きとしての正義の徳は、その萌芽形態を含めてアリストテレスにおいては、人間の自然本性に内在した一個の事実として捉えられており、そうした想定が可能であるならば、正・権利の観念も一定程度人間の本性に内在したものと解することもできるであろう。しかしながらこの正・権利は、いまだ現実的完成されたものに転化した正・権利ではなく、あくまでも人間の未成熟な心的な傾向としてある限り、いわば潜勢的正・権利、いわば可能態としての正・権利に留まっているということができるであろう。しかし人間が家族や地縁的団体や各種の職業的集団等のように、何らか共同して一個の社会を形成するとき、すなわち一個の共同的結合体を形成するとき、そこに何らかの秩序が整序(タクシス)されることによって正・権利が部分的に現実化する。そうした社会編成の極点としての国家において、法として正・権利が実定化するにいたることはこれまでのべてきたアリストテレス政治学の基本命題であった。ここにおいて権利はいわば国家の実定的権利として現実態に転化しているということができる。

その5へ続く


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