政治学と倫理学の相関の視座より
CONTENTS
[1]問題の所在
[2]訳語の問題
[3]「正(ディカイオン)」の構造
〜タクシス(整序づけ)論の視角から〜
[4]「正(ディカイオン)」の構造
〜エートス論の視角から〜
[5]「正(ディカイオン)」の二重性、
不安定性、倫理学から政治学へ
[6]拡張的転用としてのディカイオン
〜奴隷制について〜
[7]結びに替えて
まず最初にアリストテレスにおける徳と訳されるアレテーの意味について整理しておこう。
アリストテレスにおいては、アレテーとは、なんらかの卓越的力量を意味している。その点においては、目のアレテーが、良く見えることであると同じ意味をもっている。しかし、正義の徳のようなアレテーにおいては、そのものに自然内在的に備わる本性の力量ではなく、人の意識的活動、とりわけ慣習的な活動によって形成されるものである、とされる。
しかしながら、この習慣づけは、たとえ立法者の意図が善なるものであっても、市民にとっていかなる点においても強制的な意味をもつものであってはならない。この意味において、アリストテレスにおける徳は、あくまでも、人間の自由な選択的行為の所産として位置づけられている。しかもその意味は二重に解されねばならない。1つは、情念(パトス)が非選択的であることに対して言われる場合であり、2つには、能力(デュナミス)が非選択的であることに対して言われる場合、である。その意味において、徳は、アリストテレスによれば、一種の心的傾き(ヘクシス)と把握される。
それでは選択(プロアイレーシス)とは、アリストテレスにおいてはどのように理解されたのか。
ところが、思量は、目的に関する事柄ではなく、目的へのもろもろの手立てに関する事柄をめぐって行われる。
こうして、徳とは、その徳の持ち主の自由な選択の所産というべきもの、ということになるであろう。
徳自体が、こうして自由な、ヴォランタリスティックな選択行為の所産だとすれば、正義の徳もまたそれが徳という特質をもつものである以上、やはり自由な選択の所産となるのである。
ところが、先に述べたように、正とは、比例的関係のことであったから、正しい行為とは、自由な選択行為を可能とする人間が、相互にものを比例的に配分する場合に生じる事態といってもよいであろう。しかしまた他方では、選択とは思量的な欲求であったから、上述の事態に生じた正しい選択は、正しい思量的欲求であるということになるであろう。これは、また別の言葉を用いれば、ホーヘルトの規定した権利=正当な要求権とよんでもよいであろう。それゆえ正はいまやその成立の場においては、その担い手の側に即してみれば、権利の集合という事態であり、正の分有が権利となっているのである。
したがってギリシャ語のディカイオンは、アリストテレスの使用法においては、上述のように単に実定的な法律関係で使用される場合だけではなく、自由意思を持つ行為主体が存在するところでは、一般的にそれが関係、行為、事柄の比例的性格を表現する場合には正という意味をもち、主体的関与を示す場合には権利という意味を持つ、ということができよう。アリストテレスにおいては、一般的にもディカイオンは徳(アレテー)のレヴェルにおいても権利を意味していたといってもよいであろう。
したがって、アリストテレスにおいては、自由な選択能力を有する個々人からなる共同的関係が存在するところには、正も権利もまた存在することになる。
しかしながら、この正や権利は、自由身分としての資格を有する市民間の関係以外の人間関係には適用できないものであろうか。先の引用文に引き続いてアリストテレスは次のように述べている。
事実以下の文章でアリストテレスは、市民的政治的正以外の正の例を挙げている。奴隷主─奴隷間における正(ディスポテイコン・ディカイオン)、父親─子供間における正(パトリコン・ディカイオン)を挙げた上で、とりわけ夫−妻間の正は、市民的政治的正に似たものとして評価したうえで、それを市民的政治的正とを区別して「家政的正(オイコノミコン・ディカイオン)」と呼んでいる。
こうして、アリストテレスにおいては、自由意志を備えた人間の間になんらかの共同的関係が成立する場合には、なんらかの正が成立するとされるのであり、したがって権利もまた成立すると考えられるのである。奴隷もまたこの文脈においては、道具としての奴隷ではなく、一個の意思を持つ人間として考察される限り、奴隷主と奴隷との間にはある種の正・権利が成立するとされるのである。
しかしこの点についてはなお論ずべき点があるので、章を改めて取り上げることにする。しかしながら、ともかくもこうした思考は、正と友愛の関係を論じた『ニコマコス倫理学』第8巻においてさらにあらたな視点から確認されるところである。
そもそもアリストテレスにおいては、共同的結合体(コイノーニア)は、その構成員が善いと思ったことを共同で志向することによって形成された集団であった。
すなわち個々人の善の追求は、ここでは共同で志向されることによって共同の善が形成されることとなる。その共同の善が、比例的な原理をもつならばそこには、原理的にそこに一種の整序づけ(タクシス)としての正が形成されることになる。いやむしろ比例的関係の原理がなんらかの形で実現されなければ、共同の善も実現されないといったほうがよいであろう。ここでは善と正とが同置されているのである。
さらにまた上述の文章は、この正の実現は、構成員間の友愛の存在を前提していることを物語っている。根源的には、相互に友愛の関係が存在するからこそ、共同で善を志向して共同的結合体を形成するのであり、相互に友愛が存続することによって、比例的関係は持続的におこなわれるのであろう。しかし比例的に配分することはまた配分されるものが個人に帰属することを前提とする限り、それは人間の個的存在性を前提するものである。それゆえ正は人間の個的存在性と共同的存在性の統一を図る整序づけ(タクシス)であり、一面で規範的原理であり、また他面では関係行為、さらにその行為の帰結としてのなんらかの制度化をそこにみることができるものである。それゆえまた正の存在するところ自己のものを正当に要求しうる権利もまた存在するとすれば、友愛の存在するところ、権利もまた存在することになるであろう。
以上を別の観点からみれば、正および権利の存在とは、相互に友愛を担いうるという人間固有の特質に根ざした事態であるといってもよいであろう。逆に言えば、正と友愛を担いうる存在こそ人間であり、それらのものを担いうる存在であるからこそ人間は権利の保持者である、ということになるのであろう。アリストテレスにおいてはコイノーニアのあるところ、正・権利、そして友愛が存在しているのである。
さらにまた、次の点も注目されるべきである。アリストテレスにおいては、国家自体がコイノーニアの一種であり、最基底のコイノーニアたる家族からは始まるおおくのコイノーニアの重畳した全体を包括した最高のコイノーニアであったから、正もまた、重畳した正として存在しつつ、国家の正において最高の正に達するということになるのである。
こうして、アリストテレスにおいては、コイノーニアの存在するところには、正・権利が存在したのであるが、そうしたことが言いうるためには、人間の自然本性そのものにそうした正・権利のなんらかの内在が前提とされねばならないであろう。以下その点について検討してみよう。
そこで今一度徳の特質についてのアリストテレスの叙述を振り返ってみよう。
徳そのものは、自然本性的に備わっているのではないが、それを受容する能力は備わっている、というのである。徳の潜勢的受容力というものは人間に内在するといってもよいであろう。こうした視点はさらに『ニコマコス倫理学』第六巻第十三章で自然本性的徳と勝義の意味での徳を区別する思考の中に鮮明に現れている。
この箇所のアリストテレスによれば、徳にはまさに生まれつきに具わった徳、すなわち自然本性的徳(フュシケー・アレテー)と、完成した状態において形成される徳、すなわち勝義の徳(キュリア・アレテー)の2種類がある、とされているが、前者の徳から後者の徳を区別するものは知性(ヌース)との結合である、といわれている。しかしながらこの知性もアリストテレスによれば、生まれつきという意味における自然本性的知性と完成的意味における知性とがあり、これらの知性によって、勝義の徳は完成へと導かれる、とされるのである。
こうして、正への心的傾きとしての正義の徳は、その萌芽形態を含めてアリストテレスにおいては、人間の自然本性に内在した一個の事実として捉えられており、そうした想定が可能であるならば、正・権利の観念も一定程度人間の本性に内在したものと解することもできるであろう。しかしながらこの正・権利は、いまだ現実的完成されたものに転化した正・権利ではなく、あくまでも人間の未成熟な心的な傾向としてある限り、いわば潜勢的正・権利、いわば可能態としての正・権利に留まっているということができるであろう。しかし人間が家族や地縁的団体や各種の職業的集団等のように、何らか共同して一個の社会を形成するとき、すなわち一個の共同的結合体を形成するとき、そこに何らかの秩序が整序(タクシス)されることによって正・権利が部分的に現実化する。そうした社会編成の極点としての国家において、法として正・権利が実定化するにいたることはこれまでのべてきたアリストテレス政治学の基本命題であった。ここにおいて権利はいわば国家の実定的権利として現実態に転化しているということができる。
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