政治学と倫理学の相関の視座より
CONTENTS
[1]問題の所在
[2]訳語の問題
[3]「正(ディカイオン)」の構造
〜タクシス(整序づけ)論の視角から〜
[4]「正(ディカイオン)」の構造
〜エートス論の視角から〜
[5]「正(ディカイオン)」の二重性、
不安定性、倫理学から政治学へ
[6]拡張的転用としてのディカイオン
〜奴隷制について〜
[7]結びに替えて
さて、正とは、先に見たように、人と人、物と物との比例的関係を意味していたが、そうした関係が成立するためには、第1に、当事者同士がある意味で比較可能な均等性を持っていなければならない。第2に、配分されるものが個々人に帰属することが前提とされていなければならない。第3に、配分の際に生じる、過大と過少の傾向を正し、中庸の判断が持続することが前提とされねばならない。アリストテレスにおいては国家における正を考察するさいにも基本的にこのような正の理解が前提とされていた。
しかしながら、もし正を構成するこのような構成要素のひとつが欠落した場合には、正の成立は困難になるであろう。たとえば、もし当事者同士において、富が価値評価の基準となっている場合、当事者において富の点で等しい者たちに、等しくない物が配分・帰属するなら、そこでは正は実現していないというべきであろう。また当事者が互いに富において均等な人々でない場合には、彼らは均等なものを取得すべきではない、ということになる。そこでは2倍の富を持つ者が2倍のものを受け取ることが正なる関係を維持することになるであろう。さらにまた名誉が当該社会の評価基準であれば、2倍の名誉を持つ人は2倍のものを受け取ることが正に適っているであろうが、そこに単純に名誉の点で均等性が求められるならば社会は緊張状態に陥ることになる。
したがってここで問題となっている正とは、特定の価値基準の上に成立する形式的な比例的配分の不安定性ということになるであろう。この場合においては、この形式的な均等性の攪乱が闘争の原因になる、というわけである。また特定の価値に基づくこの均等性の過剰な要求こそが、国家体制の転変・移行をもたらすのである、とも述べている。いわば正をめぐる形式的均等の闘争こそが国家の体制変動の原動力であるといってもよいであろう。
しかしながら、アリストテレスにおいては、国家における正の理解はここで終わっているわけではない。正が成立するには、なんらかかの配分を受ける人の価値が前提となるが、その価値をめぐって見解の相違が存在することも指摘される。たとえば市民的政治的正における価値としては、よき生まれという価値、富という価値、自由人たる資格という価値、人としての卓越的力量(アレテー)という価値、また多数という価値を挙げた上で、それぞれの価値に基づいて統治職の配分を要求することは理に適ったことである、とされる。
このような実質的な価値の相違をめぐっても国家体制をめぐる緊張・闘争が行われることになる。
こうしてアリストテレスにおいては、正は人と人、人とものとの比例関係であったがそれはけっして安定的なものではない、とされるのである。とりわけ価値をめぐる緊張・闘争の可能性が生じたばあい、アリストテレスにおいてはそれらの諸価値をめぐる闘争は様々な国家体制の登場とその変更を帰結することもある、とされているのである。
しかしながらアリストテレスにおいては、これらの諸価値は価値という点で対等であるのだろうか。
この引用箇所では、まさに正義の徳は、国家の統治においては他のもろもろの価値に優位するものとして位置づけられている。それゆえにまたこの正義の徳を身につけた人物に、他の価値を持った人物よりも大きな統治権限や統治にかかわる名誉を帰属させるべきだという主張が登場し、また国家体制についても善き人々が統治する真に理想的国家体制の構築を理想としての収斂点として掲げるのである。
しかしながら、こうした正義の徳に基づく国家は、市民各自がたとえ自然本性的に正義を志向する存在であったとしても、個々人の自発的な倫理的向上によって達成されるであろうか。
まさにこの点の問いかけが、『ニコマコス倫理学』から『政治学』への移行の論理として提起されることとなる。『ニコマコス倫理学』第十巻第9章において、アリストテレスはこの問題を2つに視点から考察している。1つは人間集団へのリアルな認識であり、もう1つは、立法者的精神という視点である。
さてアリストテレスは人間集団を3つの部類にわけ、倫理的性状(エートス)において生まれながら神的な完成能力を持っている部類、第2に、自由人に相応しい資質をもち、自らの理性によって欲求を制御できる力を持っている部類、3つには恐怖によって支配され、情念によって生きている部類の3つにわけ、それぞれの部類にしたがって善き人になる方法が相違している、としている。
とくに第一の部類は極めて少数であるため、言外におくとして、第二の部類は言説によって教育されうるが、第三の部類に属するものがもっとも多く、また典型的のものとして一般の若者の状態として描かれ、「情念のままに生きる人は、忠告的な言説に耳を貸さないであろうし、耳をかしてもそれを理解しないであろう」とされる。かれらには徳への習慣づけという基礎的教育が必要であり、それはまた法によって育成される必要がある、とされるのである。
こうして原理的には自然本性的に正を志向する能力を持つ人間であっても、現実に家や地域的団体やその他のなんらかの共同社会、とりわけ国家を形成しようとするとき、単なる個人的な徳形成に依拠するだけでは目的が達成されないのであり、そこに法による教導が必要とされるのである。そこからまたこの法による教導を担いうる能力が特別に言及されるのであり、それをアリストテレスは「立法者的精神(ノモテティーコン)」と呼んでいる。
こうして個々人に内在する正義の徳も、それが社会において現実に発揮され、正の関係秩序を形成することができるためには、個々人の個人的努力に拠るだけではなく、「立法者的精神の担い手」(ノモセティコス)による協同が不可欠とされるのである。そしてこの「立法者的精神の担い手」の養成のためにこそ、現実の政治家の経験、現実の政治の歴史、立法と諸法の歴史が検討されることになるのである。それが『政治学』の骨格を成すことになっていることはいうまでもないことであろう。
さて上述したように、アリストテレスにおいては、正は様々な共同社会におけるある種の比例的関係であり、正義はそうした比例的関係を構築していこうとする当該社会の構成員の心的傾き(ヘクシス)であった。しかもその心的傾きにも2つの種類があり、その1つは、多くの人々によって担われる個々人の間の正義の徳であるが、もう1つは、先に述べたように、当該社会を全体として正義の社会たらしめようとする「立法者的精神」の担い手たる者が志向する正義の徳であった。いまこの点について若干敷衍しておこう。『政治学』上で正義の徳がもっともよく言及されているのは、さきにも述べたように第三巻であるが、そこで正義は次のように描かれている。
ここでは、正義の徳は、共同的結合を維持・発展させるための徳であり、他のもろもろの徳を随伴するとされる。したがってここで言及される正義は、国家という共同結合体の全体的善のために配慮する正義であって、共同的結合体を構成する個々人相互の、自己と他者との比例的配分を図る正義ではないと解するべきであろう。まさしくこれは『ニコマコス倫理学』の第五巻の前半部で議論されている全般的徳(ホレー・アレテー)であろう。それゆえこの正義はまたプラトンの言を引きつつ「他者のものなる善」とも言われ、この徳の修得の極度の困難性が強調されているのである。
こうして、アリストテレスは正義が、他者たる全体を整序付けるものとして働く場合を全般的正義とし、自己を含む個別的な益を調整するものを個別的、特殊的正義として区別したのであるが、この『政治学』第三巻の文脈では、この全般的正義の徳に、政治参加。統治職(アルコン)配分の特別の権利(ディカイオン)が帰せられているのである。ここにいたってまさにギリシャ語の正義(ディカイオシュネー)は、一方で正しい比例的関係としての個々の社会秩序の正を担う徳を意味しているだけでなく、こうした関係を全体として構築しようとする市民の全体的配慮、力量をも意味しているのである。そして後者の力量を根拠として統治職を要求する場合、その根拠は今日的用語を用いれば権利(ディカイオン)とよんでもよいものであろう。まさしくディカイオンは正でもあり権利でもあった、ということができるであろう。
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