戦略的思考を超えて[3-4]

再び結び合うものとしての「幸福(エウダイモーニア)」荒木勝(岡山大学教授)
– 利害や打算を超えた「熱狂」 –

 知慮によって獲得される幸福、そして愛の力によって行き渡る幸福。しかしそれだけではなくて、幸福にはもうひとつ別の視点から見ることのできる幸福がある。神的なものに出会うことによってもたらされる幸福がそれです。
 先の引用文をもう一度見てみましょう。
 「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福(エウダイモーニア)こそ神与のもの(テオスドートン)とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。
 ……
 しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性(アレテー=徳)とかなんらかの学習(マセーシス)や訓練(アスケーシス)によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福(マカリオン)のものであると思われる。
 ……
 すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動(エネルゲイア)である」
 この「神的なものに属する幸福」というものをどう考えればよいか、正直いって私にも長い間よくわからなかった。ところがあるとき、『政治学』の最後の第8巻でアリストテレスがひじょうに重要なことをいっていることに気づいたのです。そこにエンシュージャスムス(enthusiasmus)という言葉(ギリシャ語)が出てくる。英語でエンスージアスム(enthusiasm)。日本でも一種の俗語として「エンスー」なんて言い方で使うこともある。
 8巻の内容にはここでは立ち入りませんが、要するにこのエンシュージャスムスという言葉がそこに出てきて、はっと思ったのです。
 これは日本語では「熱狂」と訳される。「狂」という文字が含まれているから、そのイメージに引っぱられてなかなか本当の意味が伝わりにくいのですが、この言葉は「狂」ではなくじつは「神」を指しているんです。エンは英語でいうイン(in)、エンシュージャスムスはもともとエンテオスからきた言葉で、テオスというのは神ですから、エンシュージャスムスは「神の中にいる(in the god)」状態を示しているわけです。
 つまり、運によってある状況があたえられ、そのなかで一生懸命努力して正義や知慮や愛を追求したとしましょう。そのときに人間に訪れる状態がエンシュージャスムスだとアリストテレスは述べている。いうなれば忘我入神。「神的なものに属する幸福」とは、そんな状態にあるときの幸福のことなのではないでしょうか。幸福の最中にいるとき、人間は我を忘れている。我を忘れる、自己を超える、神の中に入る、それらは少なくとも、幸福な状態としては同じ状態であると思います。
 アメリカのいわゆるエリート教育制度のなかに、世界のリーダーを育てるための中高一貫のボーディング・スクールというのがあります。この学校の入学試験は、もちろん書類審査もあるけど、興味深いことに面接試験をしっかりとやるんです。その面接で、あなたが熱狂できるものはなんですかときかれる。あなたはなににエンスーできますか、ということを質問されるんですね。
 要するに、利害や打算を度外視して、自分がなにかに熱狂できる能力があるかどうかをきいてくるわけです。語学にしても数学や科学にしても、あるいはスポーツにしてもなんでもいい。そのことを通じて純粋に知る喜びとか、あるいは他人に奉仕する喜びとかを得ることができますかと問いかけてくるのです。
 
 エンシュージャスムスを「熱狂」といってしまうと、じゃっかん意味がずれてしまいますが、まあ、人間生活のある局面で、利害関係や打算的思惑をスルーして自分が没頭できる対象をもっているのかどうかということです。その質問の発案者がどこまで考えていたかわかりませんが、そのような対象があり、「戦略」を超えておのれの能力・技量を発揮できる人こそが幸福を獲得できるのではないかという発想がここにはあります。

– 再び結び合わせるもの –

 ボーディングスクールの話は単にひとつの例にすぎません。しかし、ヨーロッパ世界の言語の系譜を考えたときに、エンシュージャスムスという言葉から「幸福」にアプローチする方法があることに、アリストテレスを読んでいて私は気づいたわけです。エンシュージャスムスとは日本語でいうと「熱狂」よりは、「忘我入神」という言葉に近く、それが幸福のあり方(ヘクシス)を解き明かす、ひとつのキーワードではないかということです。
 だけどまた、そのことに気づくと同時に、そこから別の重要な問題が私たちの前に立ちあらわれてくる。忘我入神というと、ある意味で「外」がなくなるわけだから、ひとつの状態に囚われていることになる。忘我、すなわち無我夢中になるということは、やはり熱狂の「狂」の面も無視できなくなるわけです。
 狂というのはマニア、マニアックという意味のマニアです。
 たとえば端的に身近な例でいえば、オウム真理教にはいった青年たちは、忘我入神(入信)の生活をおくる。自分たちは救われると思い、「狂」的に教祖を信じて自分たちだけの”閉じた”世界に生きるわけで、精神状態としてはマニアとエンシュージャスムスがひじょうに接近した状態にあるわけです。最高の幸福と最低の不幸が、表裏一体になった問題としてそこに浮上してくる。
 はじめに、幸福というのは宗教、あるいは信仰と大いに関わってくるといったのは、そういう幸福のあり方をちゃんと視界にいれておかねばならないと思うからです。この幸福と不幸の境界線に、宗教あるいは宗教性の問題が一気に吹き出してくる。
 じつはいま私たちが論じている宗教という言葉は、オウム真理教の名をあげはしましたが、仏教とかキリスト教などの特定の宗派や教団を指す意味でつかっているのではありません。もっと一般的な次元での宗教、英語のレリジョン(religion)として理解してください。
 religionのreとは「再び」「アゲイン」という意味なのはおわかりと思いますが、ligionはラテン語の「リゴー」からきた言葉で、結び合わせるという意味です。だれがreligionを「宗教」としたのか知りませんが、むしろ先にお話した「仕合わす(しあわせ)」という言葉に religionは近い感じもします。
 それはさておき、語義として、分かたれていたものを再び結び合わせるものがreligion(宗教)です。わかりやすくいえば、人は死ぬと死者になり、生者から分離される。しかし亡くなった人を愛していた者は、再び相まみえることを願います。死者と生者が結ばれ合うことを望む気持ちが、宗教心の根幹にはあるのではないでしょうか。それはまさに幸福の問題でもあります。
 いや、それこそが、幸福とはなにかの最大のポイントだと思います。生者と死者だけではない、人と人、人と自然、そして人と神的なものが結ばれ合うことこそが、幸福にほかならないのです。エンシュージャスム、忘我入神、我を忘れるという「魂のある種の活動」は、分離された自分が再びなにかと結び合う、もしくは結び付ける活動であるといっていいのではないでしょうか。融合するといってもよいかもしれない。それが幸福というものなのです。

– つながり合う正義、知慮、そして愛 –

 どうやら、やっとひとつの結論にたどりつきましたが、これで終わらないのが人生というもの(笑)。
 では、どうやったらその「魂のある種の活動」を行うことができるのか。忘我入神というけれど、「狂」に陥らないための、”正しい”忘我入神の方法をどのようにして見出し、身につけるのかといった困難でやっかいな問題が残ります。それはヨーロッパや東洋の長い知的伝統のなかでも議論されつづけている「見神」の問題、あるいは「狂信」と正しく信じる「正信」という、ふたつの「信」がぶつかるむずかしい問題です。
 さらに、そこにまたアレテーの問題も循環してくる。
 これまで洋の東西を問わず、数々の「幸福論」が出版されていますが、有名なものではたとえばカール・ヒルティの『幸福論』があります。あれなんかを見ても、究極的な幸福とは神を見ることだという結論になりますよね。仏教にも「見神」ならぬ「観仏」という言葉がある。
 しかし、そういう教えだけでは、私たちの人生における、日常のひじょうに細々とした「選択」になかなか結びついてこない。先にもいいましたように、私たちの生活は、日々「あれかこれか」といった細かな選択の積み重ねによって営まれている。だから、思考と行動をよいかたちで結び付ける技量、アレテーという徳を身につけることが、幸福にとって欠かせぬものとして問われてくるのです。しかも、くりかえしますが、目先の戦略的思考だけではダメ。戦略的思考を超えた知慮と、それにつながるアレテーがないところに真の幸福もない。
 話は戻りますが、みなさんは『天国と地獄』を見たことありますか。あるいは本は? 私は友人から原作本の『キングの身代金(原題:King’s Ransom)』を借りて、それも読みましたけど、あれは『王の贈り物』と題名を訳したほうがいいんじゃないかな〜。著者のエド・マクベインがどういう思いで書いたのかくわしいことはわかりませんが、原題にあるransomという単語には身代金とか賠償のほかに、辞書で確かめたのですが、贖罪とか神からの贈り物という意味もふくまれているんです。
 それからキングというのにも私はひっかかっていまして、king of kings、要するに神を「王」と呼ぶ知的な伝統がヨーロッパにはある。つまりマクベインの真意は別にしても、人間が本当の幸福をつかむには、神もしくは神的なものからの贈与が不可欠なのではないか。そういう問いかけをこの作品から読み解くことができると思うんです。
 黒澤明やTVドラマの製作者たちがどれだけ意識しているかはこれまたわかりませんが、”現実の”会社経営者である社長として、企業を、社員をあずかり、そして子どもをさずかって育てている親として、極限的な状況に追い込まれ選択を迫られたときにしめすひとつの判断が、登場人物たちそれぞれに幸福をもたらすかどうかの分かれ目になる。
 マクベインの原作では札束の代わりに新聞紙をバッグにつめるのだけど、TVや映画ではちゃんと本物のお札をいれて犯人の要求を受け入れようとする。社長にとっては経済的な破滅につながる。しかし、その破滅をひとつの運命として覚悟したとき、社長に「夫婦の愛」が再来する。これはTV版の方で強調して描かれるのですが、黒澤映画では犯罪者側の呵責や恐怖がクローズアップされる。
 それぞれ強調するポイントが少しずつちがうのですが、共通していえるのは幸福とそのための選択、そしてその「報酬」といったことが主要なテーマになっていて、じつにいろいろなことを考えさせられました。多かれ少なかれ、誰もが日々、当人にとってはそれこそ天国か地獄かといった選択を実践的に迫られているわけですからね。
 そこには大きな迷いと悩みがともないます。「人生いかに生きるべきか」という哲学的問いだって否応なしに生じるでしょう。幸福、そして幸福の追求という問題を、正義と知慮と愛がつながり合ったものとして、また神的なものとの関係、あるいは自然からの贈与の問題として考え、行動していかなければならない。その過程抜きに幸福はないし、戦略的思考を超えたプロセスを経てこそ、迷いや悩みも「力」となり、幸福がその真の姿を垣間見せてくれるともいえるのです。
 ということで、これで「正義論」「知慮論」、今回の「幸福論」と3回にわたった私のお話の、ひとまずの結びといたします。(おわり)


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コメント

“戦略的思考を超えて[3-4]” への2件のフィードバック

  1. naohnaohのアバター
    naohnaoh

    素晴らしい講義録です。
    自分が講義を実際に聴いていながら、こうして言葉として読み直してみると、理解の悪い自分の体内に染みわたってくるような喜びを感じます
    これもエウダイモーニアの一つです。
    それにしても、荒木先生の含蓄のある言葉を、こうしてすんなりハラに落とせるように編集できる石井さんの力も大したものです。
    29日のミニアリ研を楽しみにしております。

  2. 石井のアバター
    石井

    お褒めの言葉をいただき、ありがとうございます。
    まだまだ不十分な点や推敲の余地はあるかと思いますが、率直な全体的評価として、率直にお聞きしました。こう言ってくださる人がひとりいるだけでも、すべての苦労が報われる思いがします。
    今後もアリ研の仲間として、また読者として、忌憚ないご意見をいただければ仕合わせです。